しかも、幹部たちも、あからさまに「忖度」しているようには見えないように細心の注意を払いますし、経営者本人も気づいていない心理的な癖を見抜いて、巧妙に経営者の歓心を買おうとする人物もいるでしょう。
こうした心理劇・心理戦は、きわめて巧妙に行われるのが常ですから、よほど用心深い経営者であっても、自分を取り巻く状況を正確に見極めることには困難が伴います。むしろ、「権力」という存在が自然につくりだす“騙し絵”を信じてしまうのが普通ではないかと思うのです。
そして、一旦、この“騙し絵”を信じると、その状況はどんどんエスカレートしていくことになるでしょう。
なぜなら、「忖度」されるのは心地いいからです。自分が「正しい」と思ったことに、労せずして周囲が賛同してくれるわけですから、心地いいに決まっています。しかし、この「心地よさ」が危ない。
自分が経営者として有能だから、何を言っても賛同されるのだという錯覚が生じるからです。この錯覚によって妙な「自信(万能感)」が生まれるがために、「自分の考え」を十分な検証もしないまま押し付けるようになり、幹部の多くがそれを唯々諾々と受け入れるような状況に徐々に陥ってしまうのです。
組織が決定的に「変質」する瞬間
さらに、そのような状況に危機感を抱き、経営者やその取り巻きが打ち出す方針を批判する一部の人たちが現れたときに、その批判を受け容れて議論を深めるという方向に動くことは極めて稀でしょう。
むしろ、“主流派”の幹部たちは、自分たちにとって都合のよい状況を壊されることを嫌って、経営者の方針をさらに持ち上げる方向に動くでしょうし、それでさらに「自信(万能感)」を深めた経営者は、最終的には「人事権」を使って反対派を排除したりすることにもなりかねません。
そして、一度でもこういう「人事権」の行使をしてしまうと、組織は決定的な変質を始めます。端的に言えば、「恐怖政治」の始まりです。
ここでも、経営者は“騙し絵”を見せられます。言うまでもありませんが、このような社内状況のなか、「あなたがやっているのは、恐怖政治です」などと進言してくれる奇特な人物はいません。それどころか、経営批判を行って「制裁」されるのを恐れる従業員たちは、文句も言わずに、黙々と激務に耐えようと努めるでしょう。
これを「社畜」などと蔑視したがる人がいますが、私は、それはモノの見方が浅くて、ひどく偏っていると思います。なぜなら、誰だって最終的には「食べるため」「給料をもらう」ために会社に勤めているからです。
特に、転職が難しい年齢で、家族を養っている中堅社員たちにとって、「制裁」を受けることはなんとしても避ける必要があります。そのため、理不尽な指示、納得のいかない指示に対しても、反論を飲み込み、ひたすら心身を消耗させながら、激務をいとわず業務に邁進せざるを得ないのです。
ところが、こうして水面化では、不幸かつ組織の生産性を損ねる事態が進行しているにもかかわらず、経営者の目には、全く違う景色が見えているはずです。「自分の経営手腕によって、全従業員が熱心に仕事に取り組んでいる」。そんな“騙し絵”を、ご満悦で眺めていることすらあり得るわけです。
自分は「未熟な存在」とわきまえる
このように、「権力」には、人と組織を狂わせる機能が内在しています。
私がこれまで見てきた経験から言えば、経営者の大半は、「権力」をもったからこそ、勘違いをしないように自戒する堅実な方ばかりですが、それでも、「権力」が生み出す“騙し絵”に惑わされて、道を誤るケースは後を絶ちません。それほど、「権力」とは、御し難いものということなのだと思います。
では、どうすれば危険を遠ざけることができるのでしょうか?
もちろん、私に、その「正解」をお伝えする資格があるとは思っていません。
私など、不完全な存在にすぎません。そして、ブリヂストンのCEOとして、一度たりとも“騙し絵”に惑わされたことはないと言う自信もありません。ただ、そのことを前提にしつつ、私なりに、経営者が絶対に忘れてはならないと思うのは「正しく怯えること」です。
経営者になったからといって、人間として立派なわけではありません。気を抜けばすぐに愚かなことをしでかす、不完全な存在にすぎません。そして、「権力」などという恐ろしいものを、完全に御することなどできないとわきまえたほうがいい。
そして、「自分が“騙し絵”に惑わされているのではないか?」「周囲におだてられているだけではないか?」「そのために誰かを苦しめているのではないか?」「組織を傷つけているのではないか?」とときに怯えるくらいでちょうどいい。このような自己チェックを常に欠かさないことは、勘違いした“愚か者”にならないために必須の、経営者としての基礎動作ではないかと思うのです。
(この記事は、『臆病な経営者こそ「最強」である。』の一部を抜粋・編集したものです)
株式会社ブリヂストン元CEO
1944年山形県生まれ。東京外国語大学外国語学部インドシナ語学科卒業後、ブリヂストンタイヤ(のちにブリヂストン)入社。タイ、中近東、中国、ヨーロッパなどでキャリアを積むほか、アメリカの国民的企業だったファイアストン買収(当時、日本企業最大の海外企業買収)時には、社長参謀として実務を取り仕切るなど、海外事業に多大な貢献をする。タイ現地法人CEOとしては、同国内トップシェアを確立するとともに東南アジアにおける一大拠点に仕立て上げたほか、ヨーロッパ現地法人CEOとしては、就任時に非常に厳しい経営状況にあった欧州事業の立て直しを成功させる。その後、本社副社長などを経て、同社がフランスのミシュランを抜いて世界トップシェア企業の地位を奪還した翌年、2006年に本社CEOに就任。「名実ともに世界ナンバーワン企業としての基盤を築く」を旗印に、世界約14万人の従業員を率いる。2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災などの危機をくぐりぬけながら、創業以来最大規模の組織改革を敢行したほか、独自のグローバル・マネジメント・システムも導入。また、世界中の工場の統廃合・新設を急ピッチで進めるとともに、基礎研究に多大な投資をすることで長期的な企業戦略も明確化するなど、一部メディアから「超強気の経営」と称せられるアグレッシブな経営を展開。その結果、ROA6%という当初目標を達成する。2012年3月に会長就任。2013年3月に相談役に退いた。キリンホールディングス株式会社社外取締役、株式会社日本経済新聞社社外監査役などを歴任・著書に『優れたリーダーはみな小心者である。』『参謀の思考法』(ともにダイヤモンド社)がある。(写真撮影 榊智朗)