敗戦直後にヒットしたリンゴの唄は、ひもじい記憶や空襲の悲惨さを思い出させる。この歌でデビューした並木路子は歌劇団時代のレイ子の友人だった。戦争で父母と兄を失った並木の歌声を聞くと、哀しみと怒りがよみがえる。高級官僚として終戦を迎えた佐藤が、戦時中の庶民の苦しみを理解しているとは思えない。その佐藤に、あえてリンゴの唄を歌わせてやりたいと思ったのだ。
佐藤は、ふっと息を吐き、意を決したように立ち上がると直立不動で歌い始めた。
「赤いリンゴに くちびる寄せて だまって見ている 青い空……」
真っ赤な顔をして一番だけ歌い、座り込んだ。下手な歌だった。下手すぎて、続きを促す気も起きなかった。
レイ子は、不機嫌そうに胡坐をかいている総理候補に微笑みかけた。
「私はね、反共と金集めを上手に両立できるんです。これからも党に貢献しますから、よろしくお願いしますよ」
レイ子は藤本と席を立った。
藤本はすっかり悪酔いしていた。
「それから佐藤さん、お近づきの印に、これから『栄ちゃん』って呼ばせてもらっていいかしら?」
帰りしなに聞くと、佐藤は気圧されるようにうなずいた。いまいましい女に早く消えてほしい一心のようだった。
千鳥足の藤本は、柱や戸に体をぶつけながら後をついてきた。
レイ子は弟分の藤本の腕を支え、後部座席に押し込んだ。東大野球部で鍛えた彼の腕はずっしりと重たい。
「あなた、お酒の力で上手いこと切り抜けるのね。見直したわ」
彼女は藤本の肩をたたいた。佐藤の姿を思い出し、笑いが止まらなかった。彼は大きく息を吐くと、「お姉さま、勘弁してください」と恨み言を言った。しかし、怒っている様子もなく、むしろ事態を楽しんでいるようだった。藤本には、官僚の枠にはとどまらない器の大きさがある。男勝りのレイ子とは相性がよかった。
彼がレイ子を「お姉さま」と呼ぶのは、子供のころから顔を合わせていたからだ。彼の父は、レイ子の父、真木甚八のホームドクター兼顧問弁護士だった。右翼の大立者といわれた甚八が病に伏してから毎日のように往診に来たのが藤本の父だ。彼女にとって藤本は、永田町や霞が関で心を許せる数少ない人物だった。
藤本を官舎に送り届けた後、世田谷の自宅へと向かうよう運転手に告げた。
(つづく)
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