庄之助と離ればなれになったお七は、また火事が起きれば一緒に暮らせると考えて放火に走り、ボヤで消し止められたが火付は大罪であったため、処刑された。
『天和笑委集』は作者不明だが、同時代の火災に関しての記録は信ぴょう性が高いといわれる。その半面、お七については曖昧な箇所もある。
例えば、お七の生家が八百屋だったと証明する史料は皆無。また、避難先の正仙院も、当時の江戸の地図に見当たらない。
避難先は円乗寺(文京区白山1丁目)という寺院だったという説もあり、実際、円乗寺には現在、お七の墓が建っているため、辻褄が合わないのである。
一方、国学者の戸田茂睡(とだ・もすい)が残した見聞記『御当代記』(1680[延宝8]年から1702[元禄15]年までの出来事を記載)は、1683年3月20日頃、
「駒込のお七、火付之事、この三月の事にて二十日時分よりさらされし也」
と、お七という娘が(何日かは特定できず)放火の罪を犯し、晒し者となっていたと書き残している。
お七はその後、鈴ヶ森刑場(品川区南大井にあった刑場)で火炙りの刑に処されたという。
ところが、江戸幕府の当時の処罰記録『御仕置裁許帳』に、お七の名はない。1691(元禄4)年、「お志ち」という女性が放火の罪で処刑されたとの記載があるだけだ。
果たしてこの「お志ち」がお七を指すのか、指すとしたら、なぜ処刑が8年もズレているのか――単なる記帳ミスとも考えられるが、どうにも腑に落ちないのである。
以上が文献に見るお七だ。まったく正体不明の女性といっていい。