お七人気は次第に熱を帯び
異なる物語を創出
素性のわからないお七が一躍有名となるきっかけとなったのが、井原西鶴が書いた浮世草子『好色五人女』の一編「恋草からげし八百屋物語」だった。刊行は1686(貞享3)年、処刑の3年後だった。
西鶴が描いたお七は、前述の『天和笑委集』を元にしたと考えられる。天和の大火、寺への避難、小姓との恋、そして放火・死罪まで、ほとんど同じである。
異なるのはお七の父を「本郷の八百屋・八兵衛」としていること――父親に名を付けている。また小姓は庄之助から吉三郎に名が変わり、避難した寺も駒込の吉祥寺となっている。
吉祥寺は現在、文京区本駒込3丁目にあり、「お七吉三郎比翼塚」も建つ。比翼塚とは男女の冥福を祈った供養塔だ。
吉祥寺の塚は、西鶴が二人の出会いの場を勝手に吉祥寺と「書いた」ことに基づいて建てられたもので、創作の産物といっていい。
さらに後世になると、お七は歌舞伎・浄瑠璃などのモチーフとしても重宝され、数多くの作品が生み出されるが、その過程で設定が大きく変わってしまう。
例えば八百屋の娘ではなく親から「人買い」に売られた子であるとか、犯した罪も放火ではなく、やむなく養父を殺したとか…。
時代設定が「鎌倉時代の江戸」という、荒唐無稽な芝居まで登場する。歌舞伎『松竹梅湯島掛額』(しょうちくばいゆしまのかけがく)である。
お七が八百屋の娘なのは『天和笑委集』と同じだが、恋仲となる男は武士で、主君から伝説の宝刀を探し出すよう命令されていた。お七は身分の違いに悩み、苦しむ。さらに、恋人が宝刀を見つけられず、その科(とが)を問われて切腹を命じられる。
恋人を救うには、宝刀を探さなければならない。在り処(ありか)を知ったお七は宝刀を盗む計画を立てるが、それには夜になると閉ざされる町の木戸を開ける必要があった。
木戸が開くのは火事のときだけだ。そこで櫓にのぼり太鼓を叩き、火災が起きたと嘘をつく。つまり放火はしない。
お七の身分、恋人の名前と出自など、もはや『天和笑委集』の原型はわずかしか残っていない。しかも放火犯の悪女からヒロインに昇華している。
こうした創作物が、大衆の人気を博していくのである。