お七を裁く
人情深いお奉行様

『天和笑委集』と並び立つ文献史料に、講釈師の馬場文耕(ばば・ぶんこう)が1757(宝暦7)年に著した『近世江都著聞集』(きんせいえどちょもんしゅう)がある。

『天和笑委集』『近世江都著聞集』には、放火の罪を減免し、お七を極刑から救おうとする情深い奉行が登場し、長い間、実話と考えられてきた。特に『近世江都著聞集』では「奉行の裁きの比重は増し、その役割は大きくなる」※

※『江戸文学「実録 八百屋お七とお奉行様」』高橋圭一(ぺりかん社)参照

 馬場文耕は、奉行がお七16歳と知っていながら、あえて「14歳か?」と問いただしたと記した。たとえ放火犯であっても、15歳以下なら死罪を免れるという規定があったからだ。

 だが、お七はお宮参りの札まで見せて「16歳」と答えた――。

 このような逸話について文耕は、「お七を裁いた奉行の日記を元家臣から見せられた」、つまり真実だと主張した。

 だが、幕末〜大正期の演芸・時代考証家の関根黙庵(せきね・もくあん)が、「面白いけれど信じられぬ」と看破したことから、『近世江都著聞集』は捏造した書と認識されるようになる。※

※『新演芸』玄文社/大正6年5〜8月参照

「信じられぬ」理由は、放火犯が15歳以下だった場合に死を免じるとされたのは1723(享保8)年以降であり、お七の時代にそのような規定はなかったからである(『選要類集 御仕置筋之部五十九』)。

江戸の放火少女「お七」の犯行動機が“ピュア”すぎて怖い…16歳の少女を待ち受けていた悲劇的な結末とは馬場文耕著『近世江都著聞集』。「お七」「御奉行中山」の文字が見える(赤枠部分)。明治8年の写本。国立公文書館所蔵

 また、文耕はお七の裁判を担当した奉行を中山勘解由(なかやま・かげゆ/直守[なおもり])としたが、勘解由は事件当時、火付改加役(のちの火付盗賊改)の任にあり、奉行ではない。

 この役職は当時はまだ強盗・放火などの凶悪犯を捕縛する非常時の役に過ぎなかった。

 さらに、お七の罪を人道的配慮から減免せよと勘解由に指示したのが、老中の土井利勝だったと書いているが、利勝は40年近く前の1644(寛永21)年に、すでに死去している。

 デタラメもいいところだ。お奉行様の人情話は、まったくのフィクションといっていい。