お七は実在したのか?
実在したならいつ死んだのか?
これまで見てきた通り、現在我々が知るお七の物語の大半は、捏造や創作の産物だ。このため、お七の実在そのものに疑問を呈する研究者もいる。
だが、そうかといって「お七はいなかった」とも、断言できない。
信ぴょう性が薄いとはいえ、『天和笑委集』はお七が死罪となった翌年から執筆が開始された。一次史料といえる。『御当代記』の著者・戸田茂睡も1706(宝永3)死去なので、同時代を生きている。
そうした文献の記載に立てば、素性・動機などは一切不明だが放火に手を染めた10代少女がいて、極刑に処された可能性までは捨てきれない。
墓の存在も無視できない。
『天和笑委集』はお七が死んだ日を「天和三年三月二十八日」とする。
一方、前述・円乗寺にあるお七の墓には「天和三年三月二十九日」と刻まれ、1日のズレがあるが、この程度の食い違いは誤差と見ることもできよう。
お七の母が娘の遺骨をもらい受け、埋葬したと伝わる墓も千葉県八千代市の長妙寺にある。墓碑に刻んだ戒名は「妙栄信女」で、没した日はこちらも「三月二十九日」だ。
つまり、「三月二十九日」が処刑された日であり、それを『天和笑委集』が1日間違えて記したとも考えられる。
お七は実在したのか、実在したなら、なぜ火付したのか、いつ死んだのか、多くの謎を残したままだ。
その謎を解くには、新たな史料が奇跡的に発見されるのを待つ他ないだろう。
『江戸文学特集 実録「八百屋お七とお奉行様」』高橋圭一/ぺりかん社
『新演芸』大正6年5〜8月/玄文社(昭和館デジタルアーカイブ)
『江戸の「事件現場」を歩く』山本博文/祥伝社新書
『西鶴と浮世草子研究Vol.4「八百屋お七」は実在したのか』矢野公和/笠間書院