しかし、「変わる」というのは日本が一番苦手とすることだ。結局、「減反政策を続けて兼業農家を支えながら、稼げる農業も応援します」という中途半端なことになっている。つまり、「既存システムを守る」ことの優先順位が依然として高いことがわかる。
もちろん、減反政策が50年以上続いてきたということは、このシステムの恩恵を受けて、家族を養い、子どもを育ててきた人たちがたくさんいるということだ。そう簡単に切り替えられないのはわかる。
しかし、そのように「既存システムを守る」ということを優先しているうちにどんどん事態を悪化させて、最終的に、当初は守ろうとしていた人々までも犠牲にしてしまうということが、日本の組織では「お約束」なのだ。
とりわけ顕著だったのが「日本軍」だ。
日本は「システムの問題」を
“ガマン系スローガン”で乗り越える
ご存じのように、大本営が敗戦確定の戦争を継続して、「一撃講和」「本土決戦」「一億総玉砕」などを掲げて、どんどん破滅的な道へとのめり込んだのは、「国体護持」への確証が得られなかったからだ。
降伏を受け入れて天皇陛下はどうなるのか、天皇制というシステムはちゃんと守ってくれるのかということが、連合国側から引き出せていないので、戦争を継続した。そのことは、さまざまな資料や証言で明らかになっている。
「国体」が崩壊すれば、日本はもうおしまいだが、「国体護持」さえできれば日本は何度でも復活できる、ということが政府や軍中枢でも頻繁に語られていた。
つまり、当時の日本の指導者層の間では、「システムを守ることが最優先事項であり、それで多少の犠牲が出るのは致し方ない」という基準であらゆる判断を下していたということだ。
もちろん、犠牲になる側からすれば、そんな話は到底受け入れられない。そこで政府が唱えたのは「精神論」だった。日本を守るには「犠牲」や「我慢」が必要不可欠であり、それを受け入れられない者は日本人ではないというキャンペーンに力を入れる。