まず、積極的な形で憎悪が表現されると、他人は軽蔑すべき存在であると思うようになる。しかし本当は、自分自身を軽蔑すべき存在と思っている。
自己憎悪はとある形で表現される。それは相手を憎むことであり、これは積極的な形での表現である。つまり、自分の自分への憎しみを、他者を憎むことを通じて感じているのだ。意識の上では、ある人を憎悪しているが、実際には自分を憎悪しているに過ぎない。
実は、妬み深いのも独占欲の強いのも、わがままなのも自分自身なのである。それを周囲に外化して、「その妬み深い人さえいなければ」となる。「さえいなければ」というのは、言ってみれば「私が私でなくさえあれば」ということになる。
自分の中にあるものを外へと表していくことで、それが他人について歪んだ認識を持つ結果に至ると、カレン・ホルナイは説明している。自分の感情を他者に投影することが、自己憎悪を深める原因となる。
「加害しているのに被害者仕草」
SNSでもよく見るこの現象を解説
執着する人は、その執着するものがなくなれば自分が自分ではなくなってしまう。だから執着するのである。名誉に執着する者は、名誉がなければ自分を感じることができない。お金に執着する者は、お金がなければ自分を感じることができない。
相手が持っていない性質を勝手に相手に付与して、その自分が付与した性質に自分が反応することがある。それが外化である。
自分が搾取タイプの人である場合、相手は善意の人である。しかし搾取する悪意を、善意の人である相手に外化する。つまり、勝手に相手を搾取する悪い人に仕立て上げる。そして「その悪人」を自分が攻撃する。
極端な例であるが、次に紹介するのは本当にあった話である。
自分が相手の土地を奪い取ろうとした。しかし奪えなかった。その時に搾取タイプの人は、相手が自分の土地を奪い取ろうとしたと信じる。
つまり外化が始まる。善意の人を搾取タイプの人に仕立て上げていく。そして自分をその被害者にしてしまう。そしてその人を憎むことで生涯を終える。