河合 三井物産は世界中の人が知っているグローバル企業だと思っていたわけですね。

水永 そうです。その中で自分は精一杯がんばっていればいいと思っていました。外に飛び出して、さらに広いとこから見たら三井物産はどう見えのるかを気にする必要があるとは、まったく思ってなかったんですね。

河合 少し戻りますが、大学時代に起業されていますよね。

水永 はい、まさにベンチャー企業でした。

河合 大学に入ったころから、学生のときに起業しようと思っていて、夢が叶ったという気持ちでしたか?

水永 当時、ベンチャーを起こす人はほとんどいませんでしたからね。私たちもアルバイトよりも少しだけ効率のいい小遣い稼ぎをしているようなもので、会社を作って大きくして、行く行くは上場させてという、いわゆる“今風”のベンチャーの考えはありませんでした。

河合 そうだったんですね。

水永 先例がないので、どうすればいいのかわからなかったんです。リクルートを創業した江副浩正さんがベンチャー企業の先例だと思いますが、当時はすでに完成されていたので参考にするには距離が遠すぎました。ベンチャーから頑張って大きくなろうとしている会社の事例を見ることは、ほとんどありませんでしたね。

河合 大学を卒業して三井物産に入社したときは、どんな気持ちで入ったんですか?

水永 このまま55歳か60歳まで勤め上げるんだ、それが原則だと思っていました。

河合 そうなんですか。本当に留学で人生観が変わったんですね。

水永 残念ながら、それまでは流されていたんだと思います。一生、一企業のサラリーマンとして同僚と比較して相対的にがんばる、そういったチャレンジをするしかないなと。大学生のときは自分で経営していたのに、それしかないかなって思ってしまったのは残念だったと思います。

河合 ということは、外に出ることも少しは考えてらっしゃったんですね。

水永 ぼんやりとは考えていましたよ。でも、80%はそのまま50何歳まで行っちゃうんだろうなという認識でした。

MBAが教えてくれた
ファイナンスのおもしろさ

河合 それからMBAに行かれて、そこで最も学んだことは何ですか?

水永 行く前は、MBAはとんでもないエリート教育だから、自分のまったく知らない世界がそこにはあって、すごいことがたくさんあると思っていました。アメリカ、あるいはヨーロッパから来ているエリートと呼ばれる人たちは、すばらしい知識をたくさん持っているという幻想があったんです。でも、実際に入ってみるとその認識は違って、同じような人たちでしたね。

河合 私の場合は本当に優秀な人が多いなという印象でした。周りの人に比べて自分のビジネス経験も劣っていましたし、彼らのキャリアに圧倒されました。水永さんは、授業は簡単だったとお話しされていましたね。

水永 そうですね。公務員試験を受けていたので、経済学、統計学、数学は一通り学んでいました。そうすると、「あ、これは全部知っている」という話がほとんどでした。ただし、ファイナンスは新しかったですよ。当時、日本ではファイナンスを学ぶ機会がなかったんです。それまでにまったくないコンセプトでした。

河合 最初は経理部にいらしたのですよね。会社でも大学でも、日本でファイナンスを学ぶチャンスがなかったのですか?

水永 今は少しずつ始まっていますが、当時の大学学部のファイナンスでは、とても基本的なことしか教えません。デュレーション、コンベクシティといったレベルからは教えていないですよ。また、少なくとも当時の経理部では、財務のことはまったく考える必要がありませんでした。

河合 あれは数学ですよね、やってみれば理系の人には簡単だと思いますけど。

水永 回りくどく言っている話も、二階微分ですよと言ってしまえば終わりなんですけどね(笑)。ただ、高校までに微分を勉強してない子もたくさんいます。大学院では専門的に学ぶ機会もあると思いますが、やはりファイナンスの専門家は少ないと感じます。当時は一層めずらしくて、ファイナンスそのものが目新しく、「こうやって考えるんだ!」と毎日喜んで講義に臨んでいました。

河合 私は、フランスのINSEADでMBAを取りました。授業は英語だったので問題ありませんでしたが、日常生活ではフランス語がわからなくて本当に苦労しました。例えば、ディッシュウォッシャーには専用の塩を入れるんですけど、スーパーにいって選ぼうとしても、普通の塩との違いがまったくわからない。

水永 フランス語ですからね、英語より大変そうです。

河合 MBAの授業では、グループワークが大変でした。ケーススタディをするとき、グループみんなでディスカッションをします。世界中からいろいろな価値観の人が来ているので、喧々諤々と議論が続き、話がまとまらない。夜の11時になって、「ああ、きょうも夕食を食べ損なった」ということはしょっちゅうでした。苦労ばかりでしたが、アメリカ人の考え方はハーバード大学にいたことである程度わかっていましたが、ヨーロッパ人の思考法を学ぶ機会になりました。