読字によって脳を鍛える、心を豊かにする──『プルーストとイカ』

 読書は、さらに根源的な力を持っています。文字を読む(読字)という行為こそが、われわれの脳をここまで鍛え上げ、このような文明構築へと導いたものだからです。

 音だけで処理できる会話と異なり、読字には「視覚」「図形認識」とともに「図形(視覚表象)と言語情報・概念情報との結びつけ」が必要になります。その要求によって、大脳(特に連合野)の機能は構築・活性化され、ヒト独自の能力を発揮していくのです。

 文字は歴史上、エジプトの象形文字とシュメールの楔形文字がその端緒でした。視覚的に極めて複雑な表意文字です。ただいずれも数千年をかけて、もっとも簡便なアルファベット(*6)という表音文字(正確には音素文字)へと収斂していきました。多民族・異文化がぶつかり合う世界では、簡単で単純な方が、普及しやすかったのです。

 でも中国では違いました。漢字という脳負荷の高い表意文字を独自に発達させました。甲骨文字から金文、小篆、隷書、行書、草書に楷書まで。そしてわれわれは日本で、その両方(表音文字と表意文字)を組み合わせた、さらに複雑な文字体系をつくり上げたのです。

『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ(インターシフト)2008年

 複雑な字体は、空間認識能力自体を上げないと、学べません。そこで楔形文字のシュメール人たちは、子どもたちに徹底的に「書かせ」ました。手で実際に書くことによって、脳を鍛え、覚え、使えるようになるのです。今のわれわれと同じです。

 だからわれわれ人類、特に日本人にとって「文字」は、ただの記号ではないのです。文字は身体的経験や空間的感覚を伴い、直接、意味につながる絵画のような存在なのです。その姿(字体)が美しければ、それだけで幸せになれます。逆もまた然り。

 文字を読み続ける訓練「読字」によって、私たちは脳を鍛え、心を豊かにすることができるのです。タフツ大学教授メアリアン・ウルフ(Maryanne Wolf)の『プルーストとイカ』は、そんなことを語っています。

読書で「想像力」「批判的思考力」「メタ認知能力」を鍛えて「自由になる」

 読書の目的は「自由に生きる」ことだ、と沖縄キリスト教短期大学教授の上原明子は言います(*7)。そして、「自由に生きる」ために必要な3つの力、

(1) 想像力
(2) 批判的思考力(クリティカルシンキング)
(3) 自己コントロールを支えるためのメタ認知能力

 を鍛えるために、読書は大いに役に立つのだと。確かにそうです。読書はテレビやYouTube の視聴と違って、自分で多くを想像しなくてはなりません。状況を思い浮かべ、登場人物たちの心情を思いやる、「想像力」が必須です。

 ヒトの思考は習得した言語によって行われています。ヒミツの暗号で動いているわけではありません。読書によってこそ、より複雑で美しい言語に親しむことができ、きちんとした合理的・論理的な思考力「クリティカルシンキング」を身につけられます。

 そして「メタ認知能力」。メタとは「一階層上の」という意味なので、「メタ認知」とは、

「自分がそれを『知らない』ということを知っている( 無知の知)」
「自分が何をやっているかをわかっている」
「自分が今はやれないことをやれるように改善する」(PDCA(*8)

 というような心の働きや、そこからの行動を指します。要は自己を客観視し、変革できる力といえるでしょう。それが、適切な自己コントロールにつながります。

 多くの本は第三者的視点で書かれています。たとえそれが一人称で書かれていても、読み手は自分を第三者と認識します。読書はそんな「客観的な視点(後方斜め上にいるもうひとりの自分)」を育てることにもなるのでしょう。

 ただしそのためには、楽しむための読書(趣味的読書)だけでなく、鍛えるための読書(鍛錬型読書)が必要だと上原は説きます。齋藤孝に言わせればそれは、「太宰治や井上靖、ヘッセ等の作品」であり、「それを大学4年間で文庫100冊、新書50冊読みこなせ(*9)」となります。……すみません、ヘッセも太宰も読んでません。小林秀雄や司馬遼太郎じゃダメでしょうか?

 読むで終わらず「教える」ことも、メタ認知能力向上には効きます。学んだことのひとつで構いません。得た知識を、「相手に合わせて自分の言葉で説明する」という行為が、メタ認知を生み出します。いずれにせよ読書は、単なる知識獲得の手段ではないということです。

*6 英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語などに独自のアルファベットがあるが、すべてローマ帝国時代のラテン文字を基礎とする。ラテン文字の元はギリシャ文字で、その最初の2 文字(αβ)をとってアルファベットと呼ばれるようになった。
*7 『「自由への読書」のための基礎的研究』上原明子、沖縄キリスト教短期大学紀要(35)、2007年、参照。
*8 Plan(計画)、Do(実行)、Check(点検)、Act(改善)。Aが次のPにつながる継続的な改善サイクルである。
*9 中高校生では各3年間で「文庫20冊、新書2冊」という。