幻想としての「恐怖心」を信じてはならない
そもそも、僕は「恐怖心」を信じすぎてはならないと考えています。
なぜ、人間は「未知なるもの」に対して本能的に恐怖心を抱くのか?僕は、それが、生物として生き残るために必要な機能だったからだと思います。
おそらく、他の動物と同様、類人猿だった時代は、未知なるものに強い恐怖を抱かなければ生き残ることができなかったのでしょう。たとえば、ジャングルのなかで生活していた類人猿が、不用意に見晴らしのいい平原に出て行けば、あっという間に獰猛な肉食獣の餌食になったはずです。危険に満ちた世界では、恐怖心というセンサーによって行動を抑制する必要があった。あるいは、恐怖心をもつ種だけが生き残ったのだと思うのです。
ところが、人類は、この数千年の間に文明を構築。かつてとは比較にならないほど安全な環境を手に入れました。その結果、「未知なるもの」に対して本能的に感じる恐怖と、実際のリスクがかい離するようになったのではないでしょうか?
なにしろ、人類の歴史は数十万年にも及びます。それだけの長期間にわたって築かれてきた本能としての恐怖心という、DNAに刻まれた生き残るための機能が、たかだか数千年で調整されるとは考えにくい。だから、僕たちが感じる恐怖心が過剰である可能性は十分にあると思うのです。つまり、もしかすると、恐怖心にとらわれ過ぎるのは、幻想に惑わされているのと同じなのかもしれないのです。
もちろん、恐怖心そのものは重要なサインです。
僕たちは、いろいろなトライをして、たくさんの失敗を積み重ねると、その結果として、新たなチャレンジする過程でも、「このまま行ったら危険だ」「これはうまくいかないんじゃないか」という虫の知らせを感じるようになります。こうした相場観、いわば経験に裏打ちされた恐怖心は、直感的に危険を避けるきわめて重要なサインです。あるいは、恐怖心があるからこそ、細心の注意を払って行動をすることができるため、結果的に成功の確率を上げることもできるわけです。
しかし、経験に裏打ちされていない、「幻想」としての恐怖心には注意が必要。それにとらわれすぎて、実際には許容できるリスクすら取ろうとせず、行動を抑制してしまうのは、逆に危険。なぜなら、人間の脳は「経験」によって鍛えられるからです。恐怖心という幻想におびえて、できたはずの「経験」をしなければ、適切な相場観も鍛えられず、自らのゼロイチ達成能力自体を削ぐことになってしまいます。成功・失敗以前に、「やらないこと」そのものに大きなリスクが伴うのです。
ゼロイチは、常に「未知なるもの」です。
だから、恐怖心を感じるのは当然。ただし、その恐怖心を信じすぎてはいけません。「メタ認知」を通して、実際のリスクを冷静に考察する。そして、ギリギリ許容できるリスクであれば、思い切ってチャレンジすることが大切です。
はじめは、小さなリスクで練習すればいいと思います。成功しようが失敗しようが、そのチャレンジをやり抜くことで、必ず「経験知」が蓄積されます。その「経験知」の総量が、僕たちの「ゼロイチ力」そのものなのです。