今、いわゆる“お金”は、世界全体で2京円(1京円=1兆円の万倍)とも3京円あるとも言われるが、誰もそれを見たことはない。
集計さえも怪しい。果たしてその分だけの裏付けと「信用」が世界に存在するのかも疑わしい。なぜなら昔のお金は、金のような鉱物資源の価値・希少性に支えられていたが、今のお金は各国の信用に支えられて存在しているに過ぎず、恣意的・政策的に製造されているからだ。
お金は、人々の意識の中だけに存在する“幻想”である。お金をお金たらしめているのは、僕たちの集合意識である。
そのフワフワとした集合意識に過ぎないお金を、せっせと刷り緻密に管理してきたのが中央銀行だ。お金の発行のことを、専門用語で「信用創造」という。信用創造はこれまでは、中央銀行が集権的に行ってきた。でもそれも限界を迎えている。
100年に一度と言われたリーマンショックや、これまた半世紀に一度と言われたギリシャショックをみれば、分かるだろう。あまりにも短期間に膨張と破裂を繰り返す僕たちの“集団意識(現代のお金のことね)”は、中央集権的なお金(=意識)の管理を不可能にしつつある。
加えて、お金の形態も変わってきた。これまでは、紙幣やコインといった物質的な形を取って管理されてきたが、今やお金のほとんどは、モニターの中に映っている電子の記号である。電子信号となったお金は、さらに扱いが難しくなった。
金融から数融に変化するなか
企業通貨が台頭している
ある消費者金融の会長は、僕にこういった。
「金融はもはや無いんだよ。あるのは“数”融だけだ」と。
お金は、貝や金から紙幣へ、紙幣からビット(クレジットカード、電子マネー)へと変質してきた。
今後、貨幣は局所で発行され、情報通信の流れに乗って、世界に溶け込んで行くことになる。貨幣が創造される過程では、「半熟」の貨幣がたくさん出てくることになり、それらが互いにつながってゆく世界が生まれる。それはまるで、IBMの中央処理型のメインフレームコンピュータの時代から、自律分散型のクライアントサーバーの時代への変遷に似ている。