繭(コクーン)化の問題を
ソーシャルメディアは解決できるのか?

 相互にコミュニケーション不能な状況が続けば、それぞれに無縁な社会が出現します。この繭化の問題をソーシャルメディアは解決できるのでしょうか?

 かつて福沢諭吉は「ソサエティ(Society)」という英語を「社会」ではなく、「人間交際」と翻訳しました。社会というと堅く動かない固定されたものという印象を与えますが、人間交際となると柔らかく変化する人々の自由な交わりを想像させます。

 ソーシャルを社会と訳せば、ソーシャルメディアは「社会的メディア」となり、やはり生真面目で退屈な印象となります。これを「人間交際メディア」や、社会よりはもう少し楽しげな言葉である「社交的メディア」と訳してみれば、ソサエティは私たちの交際や社交の力で変化させることができるものだという気持ちになってきます。

 現在に蔓延する「自分と社会は無縁である」と感じる諦観。かつて宮台氏が「仲間以外はみな風景」と表現したように、限られた小さな仲間内のグループで固まり社会との接触が薄くなっていく現象は、私たちの生活のあらゆるところで見られます。

 むしろ大半の人々が、このシステム化していく世界の片隅で、自分が社会から求められることなんてないのではないかという疑念を抱えているのではないでしょうか。

 人類が手にした新しいメディアであるインターネットは、「個人の力を最大化させ、それらをつなぎ合わせる」というコンセプトを持って生まれました。

 インターネットのコミュニケーションは時空間を超えます。言語、歴史、国境、あらゆる制限を超えていきます。

 対話によって生まれるコンセンサス(意見の一致)だけが、さまざまな二項対立や利益相反を止揚させ、隔絶している者たちの間に橋を架けることを可能にします。