パーソナル・コンピュータの成り立ちを紐解けば
ソーシャルメディアの本質が見えてくる
実はインターネットは、その成り立ちからそのようなコンセプトを持って生まれているのです。今回、被災地の方々が体験したインターネットでの心あたたまるコミュニケーションは、インターネットの開発コンセプトそのものといえます。
インターネットあるいはパーソナル・コンピュータは、世界の人々がコンピュータを個人で所有し、コンピュータを通して人と人とが対話することを可能にしました。また、各人がアイデアを表出し、互いに共有することを加速させてきました。
パーソナル・コンピュータを誰もが使えるようになることで、人間社会や組織や知識に大きな拡大が起こるはずだ――そんな夢を持って開発されたのがパーソナル・コンピュータだったのです。
そして21世紀、インターネットの中心にソーシャルメディアがやってきました。
ソーシャルメディアは、誰かの思いつきでも口コミビジネスの便利なツールでもなければ、単なる一過性の流行でもありません。ソーシャルメディアは、インターネットそのものから生まれています。インターネットの歴史を紐解けば、ソーシャルメディアに至る道は真っ直ぐストレートなのです。
ふたたび、繭(コクーン)化の問題
ソーシャルメディアは、私たちに心あたたまるコミュニケーションの可能性を提供します。しかし、そのコミュニケーションはときに、仲間内だけで小さく固まり、繭(コクーン)化を促す危険性を孕みます(繭化の危険性については【第5回】「ソーシャルメディアが無縁社会を生み出す?」を参照)。
先日、社会学者の宮台真司氏と対談をした際、宮台氏が繭(コクーン)化について大変興味深いコメントをされていました。
昔(90年代の前半まで)は、まだ「オタク系」のコミュニティに属している人々よりも、クラブなどに通う「ナンパ系」のコミュニティに属している人々の方が、華があり、格好よく、明らかに上下の関係があった。
しかし最近になると、それぞれの違いが不明瞭になり、上下の関係は薄れ、横一列に並び、お互いに小さな繭のように並存するような状況が生まれた。
一見マジョリティと思われるものも、よく見れば一つの繭のようなものです。大きな共同体という発想自体がもはや幻想であり、そういった価値観を是とするこれもまた繭であるといえます。
どちらが主流なのかと問うこと自体が難しくなっている今、むしろ問題は、繭と繭との間のコミュニケーションが不可能になり、相互にリスペクトなき断絶が起こっている状況にあるのではないでしょうか。