通訳をつけているのは自分ひとり!
一人で参加した懇親会で起きたこと
一昨年の春にシンガポールで教育に関するシンポジウムがあり、僕は参加者として招待されました。その際に僕は通訳をつけてもらいました。スピーカーであり、識者としての参加者だから、その場で話される内容を誤って理解したり、自分のコメントに間違いがあってはいけないと思ったわけです。
しかし、アジア10カ国から集まった参加者の中で通訳をつけていたのは、なんと僕ひとりだけ。 英語がアジアの共通語となっている今、英語が話せることは、いうまでもなく当たり前のことだったのです。 しかも識者という立場であるなら尚更でした。
実際僕が通訳と席に着いた瞬間から、周囲の反応は非常に冷たいものになりました。「なんだ、お前さんは英語も話せないのか、そんなレベルでよくこのシンポジウムに識者として参加しているな」というような空気を否応なく感じました。本当に、どうしようもなく冷たい反応で悲しくなるほどでした。
そしてその夜、参加者だけで懇親会が開かれることになりました。通訳は既に帰っていて僕はひとり。ある参加者が「君も懇親会においでよ」と誘ってくれたので、僕は恥をかくのも勉強だと思い参加することにしました。でも実は、僕を誘った方はきっと参加しないに違いないと思っていたようです。「参加する」と返事をすると、「あれ、こいつ来るのか!」と驚いていました。
懇親会がスタートし、最初の1時間ぐらいはやっぱりみんなの話を聞き取れませんでした。けれど、面白いことが起こりました。一人で一生懸命会話に参加しようと必死で聞き耳を立てているうちに、段々と耳が慣れ、なんとなく会話の流れが分かるようになってきたんです。おまけに酒も入っていたので酔いも手伝ってか勇気が湧き、懇親会の後半には、自分のたどたどしい英語でもなんとかその場の会話に加われていたんです!
すると、その場にいたみんなが口々に「なんだお前、通訳なんか要らないじゃないか!」「普通に話せるじゃないか!」と言い出しました。そして急速に彼ら彼女らとの距離感が縮まり、ぐっと親しくなれたのです。シンポジウムのチェアマンだったシンガポールの大学教授などは「ヒデオ、明日はワインのボトル1本持って通訳なしで加われ!」と冗談交じりに言ってくれました。たとえ冗談だろうがなんだろうが、この言葉はものすごく嬉しかった。まてよ、ひょっとして僕は案外英語を話せるんじゃないか? そんな風に大胆に考えられるようになった大きなきっかけでした。
こういう経験を通して、とにかく自前の英語で話してみることの大切さを深く実感できたことは、僕にとって大きな宝でした。
他人からすると結構話せているのに「英語は苦手で……」といつまでたっても躊躇を捨てられない人の大半は、「ちゃんとした英語を話さないと恥ずかしい」「失敗したらカッコ悪い」という強迫観念のようなものが残ってしまっているんだと思うんです。
でも、それは自分の中のちっぽけでつまらないこだわりであって、とっとと話せばいいんです。 意見があるんでしょ、アイデアがあるんでしょ、それなら、話さないなんてもったいないことです。英語の間違いなんて、その都度直せばいいんですから。大事なのは伝えたい中身なのです。
それからこれは案外気づいていない人が多いのですが、自分の英語の間違いなんて、実は他人はほとんど気にしていません。
「うわ、ヘンな英語話しちゃった、かっこ悪い、恥ずかしい」と引きずって覚えているのは自分だけ。他人はそこまであなたの失敗には興味がないんです。ネイティブと対等になんて、一体どれだけトレーニングが必要でしょう? 第一、完璧な英語を話そうが下手な英語を話そうが、コミュニケーションの質にさして影響はありません。そんなことよりもっと大切なのは「あなたが何を話すか」であり、他人が間違いよりもずっと気になるのは「この人は私と積極的にコミュニケーションしたがっているかどうか」なんですから。
とにかく自前の英語という「道具」を使ってみることが大事です。