地方局のアナウンサーから史上最年少の36歳で福岡市長に就任。
逆風のスタートから、いかにして福岡を「最強」と言われる都市に改革していったのか?
2018年11月の市長選では28万票以上を獲得、
前回(2014年)に続き史上最多得票を更新した高島市長だが、
そこに至るまでの道のりは、第1回の記事とおり、決して平坦なものではなかった。
出馬という大きな決断の裏にあった、さまざまな出来事とは…。
人生の大きな決断をするとき、チャンスをつかむときに、本当に大切にしたいことは何か。
博多駅前道路陥没事故の復旧や、熊本地震の際のSNS活用方法をはじめとした取り組みで注目を集める高島市長は、まさしく福岡市の【経営】者だ。そんな彼の仕事論・人生論が詰まった、初の著書『福岡市を経営する』(ダイヤモンド社)から、その一部を再編集して特別公開する。
<構成:竹村俊助(WORDS)、編集部、著者写真撮影:北嶋幸作>
出馬を決めたとたん、
「友だち」がサーッと消えていった
最初の選挙では、人生を見つめ直さざるをえない貴重な経験をしました。
私は、2010年まで九州・山口エリアの朝の情報番組のメインキャスターをしていました。放送局にアナウンサーとして入社してから約13年間にわたって、リポーターやキャスターとしてテレビに出演していたのです。街を歩けば「テレビ見てますよ!」と知らない人からも笑顔で声をかけていただけましたし、プライベートでもたくさんの友だちに囲まれて、自分で言うのも憚(はばか)られますが、まさに「人生は絶好調」でした。
ところが、出馬会見をした瞬間、あれだけたくさんいたはずの友だちが目の前からサーッと消えていったのです。選挙の応援を頼もうと、仲良く飲んでいた友だちやかわいがっていた後輩など、一人ひとりに電話をかけますが、ほぼ誰も電話に出てくれません。そして留守電の返事もないことがほとんどでした。選挙事務所を開設したものの、投票日の1週間前、つまり「高島候補が有利」という報道があるまではガランとして、結果的に「友だち」は誰ひとり顔を出すことはありませんでした。
「きっと選挙活動に協力してくれるだろう」と思って作った「友だちリスト」の紙を握りしめ、一人ひとりの顔を思い浮かべながら、自分の甘さをほとほと情けなく思いました。自分はこれまでリスクをとって誰かの力になったことなどないくせに、人はリスクをとって自分に協力してくれるだろうという都合のよい思い込みをする甘さ。
絶好調のときにだけ近くにいる人と、ピンチのときにも離れずに寄り添ってくれる人というものは決定的に違うのだ、という至極あたりまえのことにはじめて気づかされました。私はピンチになることで、これまでの絶好調のときには見えなかった人間関係や人づき合いを考え直すことができたのです。