最近「定年後」に関する記事や書籍が数多く出されているが、元・東レ経営研究所社長で、定年後の現在も著書の執筆や講演講師など、幅広く活躍する佐々木常夫氏は、「ビジネスマン時代の習慣や行動が定年後を決める」と断言する。
人生の教養』(ポプラ社)も上梓した佐々木氏が提唱する、「ビジネスマンが身につけたい人生における教養」とは果たして何か。(佐々木常夫)

「得る」よりも「手放す」ことに基軸を置く

坐禅の呼吸は「吐く」ことから始めるといいます。呼吸のリズムも、「吐くを長く、吸うを短く」が原則だそうです。

呼吸とは空気の体内への出し入れのことですから、これは「入れる」以上に「出す」ことを優先する思想、いいかえれば、「得る」よりも「捨てる」ことを重視する禅の思想のあらわれといえます。

このように、禅の考えには「捨てる思想」が脈打っていて、禅語にもそうした言葉がたくさんあります。「放下著」はそのひとつで、「放下」は放り出すこと、「著」は命令や強調をあらわします。

ある修行僧が師匠に、「私はもうすべてを捨てました。さらにどんな修行をすればいいでしょう」とたずねたとき、師匠はすかさず「放下著!」と答えた。

すなわち、なるほどお前はみんな手放して、何ひとつもっていないかもしれない。しかし、「すべてを捨てた、何もない」という意識のあるうちはまだ執着が残っている証しである。その「捨てた」という心さえ捨てなさい―そういういましめの言葉です。

いっさいを捨て去るとすべてが生き返る、手放すと豊かになる、だから「何もない」ところから始めなさい。禅はそんな所有や執着を離れて裸の自分に返ること、無一物の存在になることの大切さをくり返し説いています。

もっとも、私たちが修行僧のようにすべてを捨て去ることは現実的には無理でしょう。しかし、捨て去ることは無理でも、「省く」ことなら可能ではないでしょうか。

生きているうちにいろいろな荷物をいつのまにか背負い込んでいるのが人間です。年をとるほど、その荷物は増えていき、背中は重くなっていく。

でも、その中には不要なもの、余分なもの、ムダなものもたくさん含まれているはずです。それらを「放下」して、裸に近い身軽な自分に戻ってみる。「素」の自分を見つめ直してみる。それなら煩悩まみれの私たちにも何とかできそうです。会社を辞めて地位や肩書きが外れる定年などは、その格好の機会かもしれません。

この世で手にしたものをあの世へもっていくことはできません。死が平等なのはその点で、どんなお金持ちも、どんな偉い人も、この世で所有したものはすべてこの世に残して、体ひとつで三途の川を渡っていかなくてはならない。

生きているあいだに物欲、所有欲にかられて、あれやこれや手に入れたこだわりの品もぜいたく品も、何ひとつあの世へもち込むことはできないのです。

そうであるなら、求めるよりも手放すことに軸を置いて、本来不要なさまざまなものを整理し、省略し、身軽になっていくのが賢明な生き方であるといえます。

整理が必要なのは何もモノやお金だけにかぎったことではありません。人間関係だって同じです。たとえば私が五十代のころから心がけてきたことに、夜遊びはしない、二次会にはつきあわないという原則があります。

仕事がらみの飲み会で、二次会のカラオケに繰り出すときも、いの一番に歌ってしまって、つきあいの義理を果たし、あとは適当な時間を見はからって席を抜け出す―そんなやり方をしていました。つまり、ムダなつきあいの断捨離です。

人間関係も私的な部分まで入り込んで深くつきあうようなことはできるだけ避けてきました。冷たい関係というのではありません。「君子の交わりは淡きこと水の如し」で、水のように澄んでこだわりのない、「さらり」とした関係が結局長続きするからです。

だから、親しい間柄の人ほど、互いの私的な領域までは踏み込まない。仲よくつきあいながらもプライベートな問題には立ち入らない。適度な距離を保ったうえで、よい関係を継続させる。こんなルールを自分に課してきたのです。

余計なものを整理すれば、手元に残るものはおのずと少なくなります。しかし、その少ないもので満足する。私たちに必要なのは、その「知足(足るを知る)」の考え方ではないでしょうか。

知足もまた禅思想のひとつです。人間の心は木のようなもので、枝葉を自由に伸ばし放題に育った木が丈夫かといえば、そんなことはない。枝葉を適当に整理する、つまり剪定することが木を強くしなやかに育てて、大きな実をつけることにもつながるのです。

人間の心も欲をときおり(しばしば)剪定して、知足の精神に返ることが必要です。求めるよりも少しだけ多く、手放すことを考える。足るを知って、あまりがっつかない。こんな控えめな生活態度も教養をつくる重要な条件のひとつとはいえないでしょうか。

「無位の真人」を自覚せよ

定年は会社というタテ社会から、地域や家庭というヨコ社会への移行の時期でもありますが、その時期を迎えるにあたって、組織人は大きく二つのタイプに分かれるようです。

ひとつは、会社という「牢獄」から解放されて、やっと自分の好きなことができる。これからが本当の人生だ。そんな希望と再生の感覚とともに定年後の人生への再スタートを切る「定年バンザイ型」

もうひとつは、定年を会社という働く場、生きがいの場を失う「社会的な死」のように悲観的にとらえるタイプ。これでおれの人生も終わりかという無力感、喪失感のうちに定年を迎える「定年葬儀型」

前者には「おめでとう」の言葉しかありませんが、問題は後者のタイプです。こういう人はタテ社会からヨコ社会への切り替えがうまくいかず、家庭や地域にも居場所を見つけられず、第二の人生という新しい風景の中で生きがいを見出せないでいます。

定年とともに、かつての肩書きや地位、会社員というアイデンティティを返上して、「何者でもない自分」に返った。その事実にうまくなじめないことが多いのです。

この何者でもない人のことを、禅では「無位の真人」といいます。地位や肩書きなど、すべての属性を取り払って、何ものにもとらわれない裸の姿が真実の人間性であるという意味です。

つまり、「真人」は人間の本来あるべき姿であり、定年はそこへ返るチャンスでもあるのに、その何者でもない状態がなかなか受け入れられず、返す刀で現役時代の職業や肩書きや地位にこだわる人がけっこう多いのです。

マンションの自治会で現役時代の肩書きを振り回して、周囲の人から敬遠されている例を前述しましたが、私の知っているケースで、定年後も最終キャリアを名刺に刷り込んでいる人がいます。

名前の横に「元○○会社取締役社長」とうやうやしく印刷されている。「元」の肩書きがついている名刺を私ははじめて見ました。

名刺に刷り込まないまでも、かつて一流企業に勤めていた事実をプライベートの場で吹聴したり、何かというと匂わせたりする人なら、世間にはおそらく山のようにいることでしょう。定年後のちょっとした趣味の集まりでも、こういう人がすぐに始めるのは、

「お仕事は何をされていたのですか?」
「どちらにお勤めで?」
「ほお、あの会社で部長まで―」

などという過去の値踏みです。そこから始まって、相手のキャリアが自分より上なら劣等感を覚え、下なら優越感をくすぐられるのに加えて、その過去のキャリアの差がその後の関係の下敷きにもなっていく―。

要するに、無位の真人をなかなか受け入れられない、あるいは、それを自分の中になかなか見出せないでいる人たちです。無位の、素っ裸の自分が心細くて「昔の名前」で心理的武装をするわけです。

一人の人間の中にはいろいろな自分がいます。周囲との関係性によって、私たちはいろいろな顔をもっている。子どもにとっては親であり、親から見れば子であり、妻にとっては夫であり、友人から見れば友であり、部下にとっては上司であり……その総合体が自分です。

そのすべてが自分だし、どれも本当の自分ではないともいえます。また、それらはすべて属性や立場であって、自分の本質ではないともいえる。したがって、その属性や立場をみんな取り払ったところに「無位の自分」があらわれます。そして、そこが自分という人間の終点であり始点でもあるのです。

もともとは何もない、その「何もない」のが本来の自分なのだということを私たちはよく自覚すべきです。地位や肩書き、属性や立場などは遅かれ早かれ、いずれはみんな消えてゆく蜃気楼のようなものだからです。

佐々木常夫(ささき・つねお)

株式会社佐々木常夫マネージメント・リサーチ代表取締役
1944年、秋田市生まれ。69年、東京大学経済学部卒業後、東レ株式会社に入社。01年、同期トップ(事務系)で東レの取締役に就任。03年に東レ経営研究所社長になる。内閣府の男女共同参画会議議員、大阪大学客員教授などの公職も歴任。「ワーク・ライフ・バランス」のシンボル的存在である。