自己啓発の書なのか?
哲学の書なのか?

――「自助・共助」という言葉がありましたが、『嫌われる勇気』は自助を説く自己啓発書なのか、それとも哲学書なのか、どちらでしょう?

岸見 答えを安直に求めようとする人は、『嫌われる勇気』を読むと少し失望するかもしれません。端的に自分が目指すことが書いてあると思って読むと、結局自分で考えなくてはいけないからです。そういう意味で、『嫌われる勇気』は哲学の本だと私は理解しています。哲学の本に答えは書いてありません。自分で答えを見つけなくてはならないのです。

アドラー心理学の入門書『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の著者・岸見一郎、古賀史健

古賀 読者の方がブログで感想をアップしたり、アマゾンにレビューを書くとき、自己啓発書だと「ポイントを5つ抜き出す」とか、「一言で言うとこの本の内容はこうだ」とまとめることが多いと思います。ですが、『嫌われる勇気』はそれができない本なんです。ポイントを抜き出すと言っても読んだ人によって異なるし、「この5つが大事です」と明示しているものも全くない。読む人によって本の姿が変わってくるという意味では、とても哲学的な本なのだと思います。答えが決まっているのか、答えを自分のなかで出していくのか、そこが自己啓発と哲学の違いなのでしょう。

岸見 外山滋比古さんが「アルファー読みとベーター読み」ということをおっしゃっています。一読してすぐ意味がわかる読書がアルファー読書、何度読んでもわからない、そういう本を読むことがベーター読書。わたしたちはもう少しベーター読書をしないといけない。
『嫌われる勇気』は、かなり多くの人にとって“アルファー読書”なんです。一読して「よくわかるな」という印象を持たれる方が多いのですが、実はそんなにわかりやすい本ではありません。読み方は読者に任されていて、読者次第なのです。『嫌われる勇気』で語られる言葉は平易だけれど、本当は非常に難しくて厄介なものがあると思って読む人もおられる。そういう人にとっては“ベーター読書”で哲学の本。そう思わない人にとっては、やはり自己啓発の本なのでしょう。
 よく講演などで話す例ですが、アドラーのシンプルさはテニスのルールみたいなものです。テニスを見ていればルールはすぐに理解できますし、練習すれば何回かラリーができるくらいまでには上達します。けれどウィンブルドンまでは行けません。奥を極めようとするとものすごく時間がかかるわけです。
『嫌われる勇気』に書いてあるように、アドラーを本当に理解するためには、これまで生きてきた年数の半分はかかります。この本はそういう深さを持っています。短絡的に見ない人にとっては哲学の本であり、すぐにわかったと思う人にとっては自己啓発の本という位置づけがなされるのだろうと理解しています。

アドラーは我々に
どのような変化をもたらしたか?

――この5年間で本当にたくさんの方に『嫌われる勇気』、そして『幸せになる勇気』をお読みいただきました。本をきっかけに、アドラーの思想が人々に活かされていると感じることはありますか。

岸見 私は講演に招かれていろいろなところへ行くのですが、最近、上下関係が非常にはっきりしたある大組織に呼ばれて話をする機会がありました。大変に強い危機感をお持ちで、抱えているさまざまな問題について、これまでのようなやり方をしていてはダメだとトップの方々が心底思っている。そういう方たちに『嫌われる勇気』が読まれ始めていることを感じます。
 刊行当初は会社組織で言うと部下、性別で言うと女性、家庭で言うと子どもが読む本だと思っている方が多かった。それが変わってきました。以前は大きな組織の責任ある立場の方たちを相手に講演するときは、取り残された人の前で話している感じがあったのです。ところが今、そういった方たちが本当に一生懸命『嫌われる勇気』を読み始めているとの実感があります。

古賀 『嫌われる勇気』はSNSでの情報発信にも影響を及ぼしたのではないでしょうか。若い人を中心に、SNSで自分の意見や主張をしっかりと発信し、バッシングや非難があってもめげずに自分の主張を貫く人がすごく増えた気がします。また、SNSで積極的に自分の考えを発信する芸能人やスポーツ選手も増えていて、そういう方たちが『嫌われる勇気』を愛読書にあげてくださったのも大きかった。スキージャンプの高梨沙羅さんやボクシングの村田諒太さんが自分の考えを後押ししてくれる本として薦めてくださり、SNS時代の流れとよい形で一致したのかなと思います。

後編[12月13日公開予定]に続く