旧日本軍で行われた陰湿な初年兵いじめ
山本氏は『日本教の社会学』で、旧日本軍の初年兵いじめについて書いています。初年兵に便所掃除をさせる。そのあとでこう質問するのです。
(先輩兵)「おまえ、この便器をちゃんと洗ったか」
(初年兵)「はい。ちゃんと洗いました」
(先輩兵)「きれいと思うか」
(初年兵)「はい、きれいと思います」
(先輩兵)「じゃ、なめてみろ」(*1)
なんとも意地の悪い問答に、1年目の兵士は絶句するのだそうです。皆さんが初年兵の立場だったら、非道な先輩兵にどう反論するでしょうか。
軽率な絶対化がウソや矛盾を生み出す
理不尽なこの問答は、「空気」の構造と関連しています。「きれいになった」という言葉を、あらゆる場合と考えて絶対化しているからです。
しかし、初年兵は便器を掃除したのであって、食器を洗ったわけではありません。したがって、相対化の概念からも模範的な反論は次のようになるでしょう。
「用を足すには十二分にきれいですが、なめるためにはきれいとは言えません」
「もし隊員が今後これをなめるなら、なめられるまできれいにしますが、いかがしましょうか」
「きれい」という相対的な言葉を絶対化すれば、そこには虚構(ウソ)が生まれます。できないことをできると断言し、間違ったことを正しいと言ってしまうのです。
世界の現実も言葉も相対的なのに、日本人はすぐに絶対化してしまう。日本人の思考にある軽率な絶対化が、頻繁に虚構や矛盾を生み出すのです。
例えば、健康的な食べ物も、過食で害になるように、ほとんどのことには成立に条件が存在します。絶対化はその成立条件を無視させ、どんな場合でもA=Bとする圧力となります。空気の絶対化を防ぐには、その前提が成立できない条件を明確にするべきなのです。
*1 小室直樹/山本七平『日本教の社会学』(ビジネス社) P.94