空気と対比される「水」とは一体何なのか

 これまで、空気とは「ある種の前提」だと定義しました。では、水の定義はどうなるのでしょうか。山本氏の定義を再度確認してみましょう。

 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している(*4)。

 この文面から、本書では「水」を次のように定義します。

「水」=現実を土台とした前提

 これまでの連載で解説したように、「空気(=ある種の前提)」は何らかの虚構を誘発する存在でした。理由は、前提を絶対化する過程で、矛盾する現実を無視させる圧力となるからです。

 空気の場合は、願望や希望に近い形で現実を無視させる方向性を持ちます。

 一方の水は、現実を土台とした前提として機能し、「そんなことは無理だよ」「お前の今の成績では難関大学は合格できないだろう」などの発言に代表されます。

 小さな企業が著名な巨大企業との契約を得ることも「たぶん無理だろう」と誰かが言えば、それは願望に対するブレーキとして「水を差す」ことになるでしょう。

 水の場合は、現実を土台とした前提として未見の可能性を無視させるのです。

 もう少しやわらかい例で考えてみましょう。

 例えば、模試の判定がD(悪い)の高校生が、それでも名門の難関大学を受験したいと主張した場合。「絶対に合格するぞ!」と自分の中で空気を盛り上げることは、模試のD判定という足元の現実を無視しています。これは「やればできる」という“願望としての前提”が学生の中にあるわけです。

 一方で、「この成績では絶対に合格は無理だ」と周囲が水を差すことは、一般的な大学受験の合格率という“現実に即した前提”を基に、生徒がこれから驚くほど努力して、受験前に成績を大きく伸ばす可能性を無視しています。

 空気と水はともに「前提」ですが、その方向性と無視させる対象が違うのです。

(注)
*4 『「空気」の研究』P.91