任天堂の元代表取締役社長・岩田聡さんが55歳で早世されたのは、2015年7月。そのニュースは世界中を駆け巡り、国内外のファンから、哀悼のメッセージやイラストが寄せられました。岩田さんは、「私の名刺には、社長と書かれていますが、頭の中はゲーム開発者です。しかし、心はゲーマーです」というご本人の言葉どおり、天才プログラマーであり名物経営者でした。「ゲーム人口の拡大」という目標を掲げ、『ニンテンドーDS』や『Wii』の爆発的ヒットによってそれを実現していきます。ソニーやマイクロソフトの後塵を拝していた任天堂を、世界一のゲームメーカーの座に押し上げたのでした。また、国内外でのプレゼンテーションや、動画「ニンテンドーダイレクト」などでは、製品の“直接!”解説で人気を博し、スーパーマリオと並ぶ任天堂のキャラクターでもありました。
そんな岩田さんの価値観や、哲学、クリエイティブに対する思いがぎっしり詰まった書籍『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』(ほぼ日刊イトイ新聞編、ほぼ日発行)がいよいよ発売に! ほぼ日代表取締役社長の糸井重里さんは、90年代に『MOTHER2 ギーグの逆襲』のプロデューサーとして、制作会社(HAL研究所)社長だった岩田さんと知り合って以来親交を深め、「弟」とも「親友」ともいえる親しい間柄でした。その糸井さんに、「ほぼ日」で岩田さんの本をまとめたきっかけや、岩田さんの魅力をあらためて伺っていきます。(撮影:疋田千里)

――岩田さんが亡くなってから4年になります。この本はいつごろ、どんな思いから企画されたのでしょうか。

糸井重里(いとい・しげさと)さん
1948年生まれ。コピーライター。ほぼ日代表取締役社長。広告、作詞、文筆、ゲームやアプリの制作など、多岐にわたる分野で活躍。「ほぼ日刊イトイ新聞」を開設し、「ほぼ日の学校」ではオンライン学習も配信。『すみません、ほぼ日の経営』(共著、日経BP)など著書多数。

糸井 岩田さんのお葬式の日は、大勢が来ていて、土砂降りで……いろいろあったので……岩田さんの本を作ろうという話がどんなふうに始まったか詳細は思い出せないのだけど、今回の本の構成を担当した永田(泰大・ほぼ日取締役ほぼ日編集部長)さんの発案でした。
 ただ、僕らが決めるというよりは、まず岩田さんのご家族に納得していただけるものを作りたかった。任天堂の「岩田社長」としてではなく、我々がいつも一緒に過ごさせてもらっていたときに見せてくれていた岩田さんの「わたくし(公私の“私”)」の面を残さなきゃと思って作った本です。「わたくし」のときの岩田さんが、楽しそうに仕事のことを語るのが、また面白くてね。そっちの岩田さんがすごく素敵だった、と伝えるのが、僕らの仕事なんだろうなあ、と思ったんです。今回できあがってみて、ご家族からも「一読者として楽しみです」と言われて、嬉しかったです。

――「ほぼ日刊イトイ新聞」上にたくさんある、岩田さんの対談やインタビューは、今回の本に再構成されていますが、どれもリラックスして楽しそうに話されている様子が印象的です。岩田さんも「ほぼ日電脳部長」をエンジョイされていたのがわかります。

糸井 記事になっている以外にも、ものすごく長い時間を一緒に過ごしたんです。彼が任天堂の社長になって以降は僕からあまり声をかけないようにしていたけれど、彼はそれを承知していて上手に誘ってくれたんですよ。京都に行ったときは必ず会って、間に夕飯や犬の散歩を挟みながら何時間もずーっとしゃべってました。あくびをしながら、それでも遅くまでしゃべってた。時差ボケのときも多かったから。帰らないけど、あくびしてる、みたいなね(笑)。
 あとで考えたら、びっしり詰まったスケジュールの中、すごくやりくりしてくれたのだろうし、のほほんとした時間を取っちゃっていたところもあって。日曜であれば、ご家族との時間も奪ってしまっていたわけでね……でもやっぱりお互い面白かったんだなあと思います。

――岩田さんも、糸井さんたちと過ごす時間を楽しんでいらしたのだろう、と想像します。

糸井 そうですね、そうだといいですね。ある年のクリスマス時期には、岩田さんから「シーズンがシーズンなので、なかなか空いてなくて。ここが取れました」と指定されたレストランに行ったんです。彼は、イタリアンが好きでしてね。僕は和食が好きなので、僕に慮(おもんぱか)って和食を設定してくれるんだけど、時々イタリアンを混ぜるんです。その日は、京都の川のほとりにある、キャンドルでテーブルを飾ってあるような、薄暗くてムードのいいイタリアンでね。店に入ったら、本当に周りはカップルばかりの中、岩田さんが一人で座ってニコニコ待っていて「道、迷いましたか?」なんて言って。僕は思わず「このシチュエーション、僕ら、ちょっと恥ずかしくない??」って、二人で笑っちゃったんだけど。

 もっと若いころに神田でよく一緒に仕事をしていたときは、彼は特急に乗って(HAL研究所のあった山梨へ)帰るので、仕事が終わると夜遅くに僕の車で新宿駅南口まで送っていって、「じゃあね」と別れて。一緒に開発現場に泊まったりもしたし、なんだか戦友みたいな感じ。大人になってからそういう相手って、なかなかできないですよね。

心に残っているのは「言葉」より「態度」

――波長が合っていらしたんでしょうね。この本に詳しく書いてあることとは思いますが、特に心に残っていらっしゃる岩田さんの言葉はありますか。「傍観者じゃなく、当事者でありたい」という岩田さんの姿勢を示す言葉をはじめ、メディアを通じて知った岩田さんの言葉は、どれも今の私たちに刺さる言葉ばかりだと思います。

糸井 「言葉」として覚えているものは、あんまりないんです。「態度」なんですよね。だから、名言みたいにしちゃうと、ちょっとつまらない。
 たとえば東日本大震災の後、任天堂は流行っていたゲーム機をあちこちに寄付していたんだけど、なぜ大っぴらに言わないのか聞いたら、「それをね…言うのもね…」って。「言うのもね…」っていう、そのあたりに彼の姿勢があらわれている。
 震災後には、忙しいスケジュールをやりくりして、プライベートでも一緒に気仙沼に行ったんです。帰り際に魚を買ったんだけど、宅配で送るのは難しいというので、氷を入れてガタガタいうトロ箱に入れて、彼はそれを抱えたまま、気仙沼から仙台に出て、仙台空港から大阪空港に飛んで、そこから京都に戻ったんですよ。そういうことが当たり前のようにできた人です。こういうのは、言葉じゃないでしょう。「そういうヤツ」なんですよ。

 あと、よく覚えているのは、「一人で動いていた」ことですね。小さいコロ付バッグをいつも引っ張っていて、一人でどこにでも行っていた。今回の本のイラストを起こすにあたって、奥さんに岩田さんが使っていたコロ付バッグの写真を送ってください、とお願いしたら、なんと二つあったことがわかって。「どっちがいいですか?」と。それで、岩田さんが一人で動いていたんだな、とあらためて思いました。コンプライアンス上は、上場会社の社長が一人で行動するのはまずかったのかもしれないけど、そういう人だったのでね。

――いつも穏やかで、理詰めだけでなくユーモアもあって、人を喜ばせることがお好きだったのが、記事や映像などからもすごく感じられますよね。怒ったところもご覧になったことはないですか?

糸井 あったのかもしれませんけど、少なくとも僕は見たことないな。ただ、「黙っている」のはよく見ました。きっと怒る場合も、「考える」というプロセスを経て、何らかの表現になるんじゃないですか。昨日会ったお医者さんが、母親が胎児に栄養を送るときは、いったん胎盤に送って、胎盤から子どもは栄養を取る、という話をしていたんですが、岩田さんの場合は「考える」という胎盤に全部をいったんまとめるんじゃないかな(笑)。腹が立つなと思っても、なんでかな、どうしたらいいだろう、といったん「考える」んでしょう。