「定期テスト」をなぜやめたのか?
――なるほど。しかし、宿題をなくしたからといって、子どもたちが主体的に学習を始めるとは限りませんよね?
工藤 そうですね。重要なのは、教師が、一人ひとりの生徒が「どこがわからない」のかを把握すること。そして、「わかる」ようになるために、一人ひとりの特性に合わせて適切なサポートをすることです。「わからなかった」ことが「わかる」ようになる喜びを体感すれば、生徒たちは必ず主体的に学習を始めますからね。
ところが、日本は明治維新から現代にいたるまで、画一的な教育を推し進めてきました。国民に必要と思われる教育カリキュラムを定め、それを割り当てられた時間で一律に教えるとともに、生徒たちに、インプットした情報をペーパー・テストで吐き出させる。そして、この能力に長けている人がより優秀な大学に入る仕組みになっていたわけです。
しかし、この仕組みでは、どうしても本来もっている能力を発揮できない生徒を生み出してしまいます。たとえば、ベストセラーになっている『小児科医のぼくが伝えたい 最高の子育て』(高橋孝雄著、マガジンハウス)という本に、著者がアメリカのハーバード大学に留学したときに指導を受けた世界的に有名な女性医師が出てきますが、この女性はディスレクシア(識字障害)で、読み書きができなかったそうです。
もし、彼女が画一的に教育する日本にいたら、どうなったでしょうか? おそらく、ペーパー・テストでよい点を取れず、研究者になれなかったのではないでしょうか。でも彼女は、周囲の人のサポートもあって、読み書き以外の方法で知識やスキルを身につけることによって、「わからないこと」が「わかる」ようになる喜びを知った。そして、主体的な学習を積み重ねることによって、遺伝子に関する世界的な研究を成し遂げるまでに成長することができたのです。
生徒には一人ひとり特性がありますから、画一的な教育には限界があります。生徒たちの主体性を育てるためには、それぞれの特性に合わせた指導・サポートが必要なんです。
――なるほど。そのような考え方が、「定期テスト廃止」につながっているんでしょうか?
工藤 そうですね。私が定期考査をなくそうと考えたのは、まず第一に、宿題と同様、「子どもの学力を高めること」という目的を達成するための手段として適切ではないと感じたからです。
中高生時代を思い返してみてください。定期考査前の一週間、日頃の遅れを取り戻すべく躍起になって勉強し、テストに出そうな部分を一夜漬けで頭に叩き込んだ記憶はありませんか? それは、今の生徒たちも同じです。
しかし、一夜漬けの学習は、「テストの点数を取る」という目的においては有効ですが、学習成果を持続的に維持する上では効率的とは言えません。テストが終わったら、かなりの部分は忘れてしまうからです。そうしたプロセスを経て獲得した点数・評価は、その生徒にとっての「瞬間最大風速」にすぎず、それをもって成績をつけたり、学力が付いていると判断するのは不適切でしょう。
――中学時代、いつもそうでしたね。耳が痛いです……。
工藤 いや、これは仕組みに問題あったのです。この仕組みのなかでは、ほとんどの生徒はそのような行動パターンに入っていくというべきでしょう。
では、なぜこの仕組みがずっと続けられてきたのか? 端的に言えば、「通知表をつけるため」です。定期考査の点数で生徒を序列化して、「5〜1」の評定をつけるのは非常に都合がいいからです。しかし、定期考査の点数がいいから、本当の意味で「学力がついた」とは言い難い。ここにも「目的と手段」のねじれがあるのです。