さて、『「空気」の研究』では、「臨在感」や「臨在感的な把握」なるものが主題の一つとなっている。
「臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、(中略)感情移入を絶対化して、これを感情移入だと考えない状態にならねばならない。」
臨在感というのは山本氏オリジナルの用語なので、その定義は割愛するが、山本氏が言う臨在感的な把握は、たとえば一人の人間のなかに、「善の部分と悪の部分が対立しながらどちらもある」と認識するのではなく、自分のなかにある善悪の規準で、他人を短絡的に善玉・悪玉に分けてしまい、ある人間には「自分のなかにある善の概念」を乗り移らせて「善」と把握し、別の人間には「自分のなかにある悪の概念」をすべて投入して「悪」として把握するということだと言う。
ある事件や現象があったとして、なにかのきっかけでそれに多くの人が感情移入し、「そこにマスコミがとびつき、大きな渦となり誇大に宣伝され、世論となる」。勝手に感情移入してヒーローに仕立て上げたかと思うと、同一人物のなかに悪を発見して、自己の悪をそこに投影させ、一転、全面的な悪の象徴として、てのひらを返したように、たたき落とすのである。
なぜ、そんなことになるのか。山本氏は一神教の話をする。
多神教ゆえに
「空気」が絶対になる日本
「一神教の世界では「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。」
キリスト教やイスラム教のような一神教世界には、そもそも絶対的なものなど神以外にはない。民主主義であろうと、憲法であろうと、何であろうと、である。一方、日本のような森羅万象に神を見いだす多神教にはそのような基軸になるものがないから、何ものかが選ばれて、それがその場や社会を支配する「空気」となって絶対性を持つことがある。しかもそれは次々と移ろう。
「民主(筆者注:民主主義のこと)といえばこれは絶対で、しかも日本のそれは世界最高の別格であらねばならなくなる。憲法も同じであり、あらゆる法は常に欠陥を持つから、その運営において絶えず改正を必要する存在であってはならず、戦前の天皇制が、他国の立憲君主制とは全く違う金甌無欠の体制であったという主張と同様、完全無欠であらねばならないのである。」
これは、戦後、軍国主義から一転、民主主義や憲法が絶対視されたことを指している。山本氏は、このようにあらゆるものを絶対的なものとして見ることを警戒する。一方で、山本氏は、日本の絶対化の“いいかげんさ”も指摘する。
「この世界には原則的にいえば相対化はない。ただ絶対化の対象が無数にあり、従って、ある対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる――ただしうまくやれば――」