【お寺の掲示板85】分ける心が苦しみをもたらす龍岸寺(京都) 投稿者:@kyoto_ryuganji [2021年7月3日] 

自治体によって何種類に分けるかはさまざまですが、ゴミの分類は厄介なものです。仏教では、“分ける”ことなくありのままに物事を受け入れる“無分別”を尊ぶのだそうです。(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)

アスリートの闘いに感動したあとに

 昨日9月5日、東京2020パラリンピック競技大会が閉幕しました。7月23日から8月8日まで開催された東京2020オリンピック競技大会と共にこの1カ月余り、出場したアスリートたちの懸命な姿から元気をもらったという人は多かったことでしょう。

 一方でこの競技大会は、アスリートにとっては非常に残酷な場でもあります。上位3人(組)だけが表彰台で金銀銅のメダルを授与され、祝福される者とされない者、勝者と敗者が非常に分かりやすい形で誕生します。メダルを目指して懸命に努力してきたアスリートの中で、その願いが叶えられるのはごく一部であり、多くは悔し涙を流します。

 勝or敗、速or遅、美or醜、強or弱、善or悪……。私たち人間は、さまざまなものを心の中で勝手に2つに分けて捉えます。これを「分別心」といい、実はこの「分別心」が人間に苦しみをもたらします。心の中で分別されたものは、相対するものであると同時に相争うものでもあるため、分別心を持っている人間は常に漠然とした不安を心に抱えることになるからです。

 ですから、仏教では「分別のある大人になりなさい」とは決して言いません。仏教の目指すべき境地は「分別」ではなく、「無分別(不二)」の境地にあります。『維摩経』という経典の中に、この分別・無分別に関する有名な問答があります。在家居士の維摩詰(ゆいまきつ)は、仏弟子から「無分別(不二)の境地に入るにはどうすればよいか?」と問いかけられます。

 そのとき維摩詰は何と答えたのか。「沈黙」でした。最初、周囲の人たちはこの答えの意味が分からず、彼が黙っているのかと思ったようです。その沈黙が長くずっと続く中で、文殊菩薩が「文字や言葉さえ届かない。これが真に不二の法門(無分別の境地)に入るということなのだ」と褒め讃えたのです。

 私たちは常に言葉を使って思考します。言葉を発すれば、そこに分別が必ずつきまといます。ですから、無分別(不二)の境地を表すために、維摩詰はあえて言葉を使わずに沈黙という手段を用いました。これが、有名な「維摩の一黙」というエピソードです。
 
 では、沈黙する以外で言葉(分別)から離れられない私たちが分別を越えるにはどうすればよいのでしょうか?

 その答えは、分別した二元の双方を肯定して受け入れること以外、他にはありません。浄土真宗の妙好人(篤信な信者)として知られた源左さんは、どんなことでも「ようこそ、ようこそ」と必ず受け取っていたと伝えられています。晴れもようこそ、雨もようこそ。自分にとっての勝ちや負け、都合のよいことや悪いこと、それら全てをありのままに肯定して、「ようこそ、ようこそ」と受け取る。そうすればこの世界に無駄なものが一切なくなり、分別(二元)が意味を持たなくなります。

 この夏のオリンピックとパラリンピックは、ある意味「分別の世界の象徴」です。勝者と敗者、光と影が残酷なまでに生み出され、そこで繰り広げられる悲喜こもごものドラマに、分別の感覚を持って生きている私たちは強く共感させられます。

 しかし、仏教の無分別の観点からすれば、そこには勝者も敗者も光も影も全く存在しません。掲示板の文言のように、参加した全てのアスリートも、参加していない人々も、「みなが一位で金メダルである」ということを忘れないでいただければと思います。