「自己責任」を弱めたい
佐々木:コメントでも、「お二人の本を読んで会社を辞めました」というものが来ていますね。この方も自分らしさを見つけられたのかもしれないですね。
僕もフィリピンに住んだこともあって、文化人類学にも影響を受けています。今、この時代の日本の状況が息苦しいなと思ったり、なんか合わないなと思ったときに、そういった知見を入れてみると、今あるルールが絶対的なものではないと気づけます。この本で紹介されいるように、むちゃくちゃにやっている人たちもいるし、宇宙の本を読めば宇宙のスケールから見ればどうでもいいしと思えたりもして、そういう時すごく気持ちが楽になります。
pha:そうですね。そうやって気が楽になる感覚は、みんなに共感してもらえるか少し不安だったんですが、佐々木さんにそう言ってもらえるとありがたいです。
佐々木:僕には共感しかなかったけど(笑)、みんなは違うのかな。
pha:どうなんでしょうかね。「自己責任を弱める」というのは、伝えたいテーマとして昔からあります。人間の判断とか考えることとかは、周りのいろいろなものに左右されるものなので、自分だけの責任ではない、という。そう認識することで、気持ちを楽にしてほしい、と思っていますね。
「ホモサピエンス」には難しいこと
佐々木:脳科学や進化論を勉強すると、「人間はこういう生き物だから、別に自分が悪いわけじゃない」ということをよく思いますよね。個人的には主語を「ホモサピエンス」にすると、結構、楽になることが多いです。「ホモサピエンスに遠距離恋愛は無理だよ」とかね。
自分の努力が足りないわけではなく、ホモサピエンスという種の限界の中にいる自分には「それはできません」ということがわかると、すごく楽だなと思えます。
pha:自分にも他人にも寛容になれますよね。しかたないんだ、って。
佐々木:遠距離恋愛が難しいと「自分の愛が足りないのではないか?」とか思うじゃないですか。
pha:「そもそもホモサピには難しい」という視点は、気持ちを楽にするのに大事だと思います。佐々木さんの本は、そういう視点が多いですよね。
佐々木:『ぼくたちは習慣で、できている。』という本は、ホモサピエンスは基本的には良い習慣なんて身につけられないものだから、じゃあ、その難しさをまずは理解して身につけるにはどうすればいいのかを書いた本です。その前提は、たぶんphaさんと一緒だと思うんですね。
それを乗り越えるために頑張る人と、基本的に無理だと諦めている人がいたとしても、その難しいという前提自体を共有できていれば同じじゃないかと思うんです。たとえば運動の場合、僕は運動が好きで得意だったから、そういう体験がある人は、「やってみようか」なるかもしれない。
逆に、運動が好きじゃなかった人は、別にやらなくてもいいと思うかもしれない。どちらも、「ホモサピエンスには土台無理な話だよ」という考えを共有できていれば選択は違ったとしても理解しあえる。ただ、その前提を共有してない人は「努力論」とかに陥りそうな気がします。
pha:そういう努力論は苦手だな。「気合いが足りない」みたいな。基本的に頑張りたくないんですよね。頑張らなくていい世界観で生きているので、そういう見方を強化してくれる話をたくさん集めてしまうところもありますね。
「なんでもできる」と
自分が何者かわからなくなる
佐々木:phaさんは「自分のできなさ加減」に愛着があるということを別の本で書かれていました。確かに、自分のできることではなく、できないことが個性を形作っているのかもしれないと最近思うようになりました。僕は、何事もそこそこできてきたほうなんですよ。だから、できないものがあると、できないのが許せないなと思ってやろうとしてしまう。
でも、なんでもできたところでその人の個性はないんじゃないかなと思うんですよね。たとえば僕は、基本なんでも好き嫌いなく食べられますけど、そうすると、これが好き! というものがなくなっていくような気がします。
pha:僕もそうかも。なんでもおいしいんだけど、「これが好きだ」って強く思うものがない。
佐々木:他のすべての食品に対してアレルギーを持っているけど、「甲殻類だけは食べられるから、めちゃくちゃ詳しいです」みたいな人のほうが個性がありますよね。
pha:キャラとしてわかりやすくていいですよね。ちょっと憧れる。
佐々木:整形もそれに似ているなと思います。顔を整形して、目が大きいとか、鼻が高いとか「良いもの」ばかりにすると、みんな一緒の顔になったりするじゃないですか。
結局、個人の顔を見分けているのは、その人のコンプレックスの部分かもしれない。コンプレックスこそが、その人の個性なのではと思ったりします。
pha:なんでもできると自分が何者かわからなくなるという話が、この本で紹介したグレッグ・イーガンの『しあわせの理由』というSF小説に出てきます。脳の障害の後遺症で、世の中のすべての娯楽が気持ちよく感じるようになった男が出てくるんですよ。ジャズもロックもクラシックも全部同じくらい好きでたまらなくなる。そうすると、自分自身がどういう人間か、というのがわからなくなる、という話です。
佐々木:以前に「もし体がこんなにだるくなかったら、もっと頑張りすぎて、ダメになっていたかもしれない」とphaさんがおっしゃっていましたね。
pha:はい。僕は、「体が常にだるい」ってずっと若い頃から思ってたんだけど、そのだるさが自分を作ってくれてきた気がするんですよね。もっとだるくなくて普通のことを普通にこなせてたら、社会に対するかすかな違和感を封じ込めたままで、なんとなくもっとつまらない感じで生きてきた気がします。「だるさ」のおかげで、自分らしい人生が歩めたような気がします。
佐々木:それは、きっと悟りの一種みたいなことだと思います。
pha:頭で考えることよりも体で感じることのほうが個体差が大きくて、その個体差がそれぞれの人生を作る、という感じがします。
しゃべるのが苦手だったから
こんなにも「本」を読んだ
佐々木:この本でも、身体の話を書いていますね。「体の声が聞こえるか」という項目です。体をバリバリ鍛えている人や、瞑想などをしている人が言いそうな言葉ですけど、そうではない文脈でも身体のことが言えるんですね。
pha:そうですね。だるさを感じる人でも、そのだるさを大事にしようという文脈で、内田樹さんの『私の身体は頭がいい』と、橋本治さんの『「わからない」という方法』を紹介しています。僕は、だるくなかったら、自分のアイデンティティが揺らいでいた気がする。あと、人としゃべるのが得意だったら、こんなに本を読んでいなかっただろう、というのも感じますね。
佐々木:それは絶対にありますね。でも最近、対談などをよくされているのは、そういうのを克服したい気持ちもあるんですか?
pha:克服したい、というわけではないんだけど、最近、「昔よりはできるようになったかも」って思ったので、ちょっと挑戦してみようかと。書くことばっかりやってるのに飽きたのもあるかも。
昔は「しゃべるのが苦手」というのにアイデンティティを持ってたところもありましたね。俺には本があればいい、みたいな。でも歳を取ってそういう自意識が薄れてきたのもありますね。なんか、歳を取ると、能力的にも自意識の部分でも、自分の尖っている部分が薄れて、少しずつ普通に近づくのはありますね。
→次回「『人間は片づけができるようには作られていない。』気持ちをラクにしてくれる読書のすすめ」に続きます。
1978年生まれ。大阪府出身、東京都在住。京都大学総合人間学部を卒業して就職後、できるだけ働きたくなくて社内ニートになるものの、28歳のときにツイッターの登場に衝撃を受けて会社を辞めて上京。以来、定職につかず毎日ふらふらと暮らしている。シェアハウス「ギークハウス」発起人。ロックバンド「エリーツ」のメンバー。著書に『人生の土台となる読書』(ダイヤモンド社)のほか、『しないことリスト』『知の整理術』(だいわ文庫)、『どこでもいいからどこかへ行きたい』(幻冬舎)などがある。