「人種・民族に関する問題は根深い…」。コロナ禍で起こった人種差別反対デモを見てそう感じた人が多かっただろう。差別や戦争、政治、経済など、実は世界で起こっている問題の“根っこ”には民族問題があることが多い。芸術や文化にも“民族”を扱ったものは非常に多く、もはやビジネスパーソンの必須教養と言ってもいいだろう。本連載では、世界96カ国で学んだ元外交官・山中俊之氏による著書、『ビジネスエリートの必須教養 「世界の民族」超入門』(ダイヤモンド社)の内容を中心に、多様性・SDGsの時代の世界基準の教養をお伝えしていく。

なぜ、キリスト教は“東”と“西”に分裂したのか?Photo: Adobe Stock

東西分裂で東方正教会とローマ・カトリックが誕生

 他民族からの外圧や内政不安で弱体化していたローマ帝国は、キリスト教の国教化のわずか三年後、東西に分裂します。これに伴いキリスト教も二つに分かれます。

 西ローマ帝国は、四七六年に西ローマ帝国の傭兵隊長オドアケルによって滅亡。その後、西ローマ帝国の領域はフランク王国の支配地域となっていきます。

 やがて、現在のスペインと北欧を除く西ヨーロッパの大半を支配するようになるフランク王国がキリスト教を受容したことで、キリスト教は西ヨーロッパに広がりました。

 しかし、全ヨーロッパにキリスト教が伝播するには、相当の年月がかかりました。イングランドへの本格的な伝播は六世紀頃、北欧はさらに遅く本格的な伝播は一一世紀でした。

 フランク王国のカール大帝は、八〇〇年にローマにて、教皇からローマ皇帝として帝冠を授かりました。ローマ教皇から世俗界を支配する者として認められたのです。

 これは世俗権力がローマ教皇の下につくという中世の聖俗秩序を象徴する出来事でした。このような教皇による帝冠の授与はフランク王国の後継者的な立ち位置になる神聖ローマ帝国においても続けられました。

 映画や海外のテレビドラマで神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が描かれることがありますが、皇帝といえどもローマ教皇の前では平伏します。いかにローマ教皇が力を持っていたかがわかる場面です。

 さて、話を東西分裂後の話に移します。東西の教会には、以下のような特徴がありました。

 東方正教会は、コンスタンティノープルが拠点。東ローマ(のちにビザンツと呼ばれるようになります)皇帝が教会のトップとなったために、政治権力と宗教的権力が完全に結びついていました。

 これが東方正教会の始まりで、スラブ民族に多く広まりました。現在ではギリシャ正教会、ロシア正教会など、国の名前がついています。ちなみに、日本の御茶ノ水にあるニコライ堂は、ロシア正教会です。

 一方、西側にあたるローマ・カトリックは、ローマが拠点。初代のパウロから続くローマ教皇がすでに存在していたので、政治権力と宗教的権力は離れています。(なお、カトリックという名称は普遍性という意味であり、二世紀くらいから徐々に使われるようになりました)

 ローマ帝国の分裂後、八世紀に東ローマ帝国のレオ九世が、当時台頭してきたイスラム教への対抗から聖像禁止令を発布しました。

 なぜなら、偶像崇拝を厳しく禁止するイスラム教がキリスト教を偶像崇拝をしているとして攻撃してきたからです。

 しかし、ゲルマン人への布教のために聖画像を用いていたローマの教皇はこれに反発し、東西対立が深まります。

 当初は拠点が異なるものの一つのキリスト教だった東方正教会とローマ・カトリックは、一〇五四年にお互いがお互いを破門するという形で分裂します。

 和解するのがなんと一九六五年ですから、同じキリスト教であっても、それぞれ独自の道を歩んだということです。

 ちなみに「キリスト教=ヨーロッパ」と考えている人が多いと思いますが、中東が発祥の地ですから、「中東のキリスト教徒」は現存します。

 エジプトのコプト正教会やシリア正教会、エチオピア正教会などのキリスト教徒は、五世紀のカルケドン公会議でイエスが神性と人性の両方を持つという両性説が否定されたことから「非カルケドン派」と呼ばれます。

 これらの地域のキリスト教徒は、後の東方正教会と共に広い意味での東方教会と捉えられることがありますが、ギリシャやロシアの正教会とは教義に違いがあることに注意すべきでしょう。