SNSが誕生した時期に思春期を迎え、SNSの隆盛とともに青春時代を過ごし、そして就職して大人になった、いわゆる「ゆとり世代」。彼らにとって、ネット上で誰かから常に見られている、常に評価されているということは「常識」である。それ故、この世代にとって、「承認欲求」というのは極めて厄介な大問題であるという。それは日本だけの現象ではない。海外でもやはり、フェイスブックやインスタグラムで飾った自分を表現することに明け暮れ、そのプレッシャーから病んでしまっている若者が増殖しているという。初の著書である『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)で承認欲求との8年に及ぶ闘いを描いた川代紗生さんもその一人だ。「承認欲求」とは果たして何なのか? 現代社会に蠢く新たな病について考察する(本編は書籍には含まれていない番外編です)。

「低すぎる自己評価」を解消するたった1つの方法Photo: Adobe Stock

「自己評価の低さ」はコントロールできない

私は、自分に自信がありません。いつから自信がないのかはよく覚えていませんが、とにかく自信がないのです。「自信がない」と口にすると、たいていの場合、「なんで?」とか「そんな風に見えない」とか「もっと自信を持っていいんだよ」と言われます。でも、自信をつけようとしても、できないんです。何度もやろうとしました。意識を変えようともしました。なのに、いつも見つかるのは自分の欠点ばかり。何がいけないのかはわからないけれど、私は自分のことがあまり好きではないのだと思います。好きなところと、嫌いなところ、どっちの方が多い? と聞かれたら、圧倒的に嫌いなところの方が多いのです。私は、いつもまるで日めくりカレンダーみたいに、毎日コンプレックスを数えてばかりいるのです。本当に、毎日毎日。

どうしてこんなに私はだめなんだろう、とよく考えます。一体私の何がいけないんだろうと。どうしたら、自分のことを好きになれるんだろうと。だけど、いくら考えてもわかりません。そもそも、「自分に自信がない」とはどういうことなのでしょうか?

「自信」とは、「自」を「信」じるという字を書きます。けれど、そう考えると、なるほど、「自信がない」とはつまり、自分のことを信じられていないということなのかもしれません。そうか、私は自分のことを信用していないのか、とそれに気がついたとき少し、納得しました。思えば、私は今までに心から自分のことを信用できたことが一度もないような気がするのです。なんだか、「自分」は、「自分」でありながら、どこか遠い、ずっと奥の方に、見えなくなって、霞んで立っているような。そんなイメージ。

私にとって、自分とは、「私」ではないのです。私とは別の、操ることのできないだれかがずっと心の中にいて、それを覗き込もうとしても、たどり着けない。だから、私のことが信用できない。私が何をしでかすかわからないから、放っておけない。また変な気をおこさないでくれよ、と思う。でももう一人の「自分」は必ず変な気をおこすんです。かならず。だから私は本当にやめてほしいし、絶対にやめさせたいと思うのに、やめてくれない。そういう、困った存在。それが自分なのです。