日銀の黒田東彦総裁が最近繰り返している「急速な円安の進行は、企業の経営計画に不確実性をもたらし好ましくない」というフレーズにはどのような含意があるのか。その真意について、元日本銀行金融研究所所長で、『金利と経済――高まるリスクと残された処方箋』などの著書もある翁邦雄氏に聞いた。
円安を巡る認識のギャップ
新型コロナ第7波の感染急拡大もあって経済はきわめて脆弱な状況下にある。それだけに低金利政策を絶対に維持する、という日銀の姿勢は揺らいでいない。
しかし、日銀の超低金利政策維持の姿勢は米国金利次第で円安容認にもつながる。米国ではインフレ抑制のニーズと景気後退リスクの綱引きで金利予想が揺れる。悪い景気指標が出れば、金利差拡大予想が弱まり円高に振れるが、インフレの勢いが予想外に強く金利差が拡大への懸念が高まると円安になってしまう。
この間、鈴木財務相は繰り返し「悪い円安」への懸念を示しており、円安が物価高騰を後押ししている、という不満が経済界や国民の間でも広まってきた。これは日銀にとっては頭が痛い問題である。
このギャップはどこから生じるのか。一言で言えば、鈴木財務大臣の「悪い円安」論と異なり、日銀は本音では「円安は日本経済にとってプラス」と捉え続けていることによる。
黒田総裁が、最近、繰り返しているフレーズは「急速な円安の進行は、企業の経営計画に不確実性をもたらし好ましくない」というものだ。「急速な」という枕ことばを付ける真意は、「急速でなく、徐々に円安が進むのであればかまわない」ということである。「急速な円安の進行は、好ましくない」という表現は、政府に配慮しつつ、円安歓迎の本音とも両立する表現になっている。
実際、7月21日の記者会見でも、黒田総裁は、「わが国経済にとって大事なことは、円安によって収益が改善した企業が、設備投資を増加させたり、賃金を引き上げたりすることによって、経済全体として所得から支出への前向きの循環が強まっていくこと」、として円安のプラス効果の発現に強い期待を示している。
きわめて大きい円安の再分配効果
「円安は日本経済にとってプラス」という主張の根拠として、日銀は、今年1月の展望レポートで「円安が10%進めば実質国内総生産(GDP)を年間で0.8%ほど押し上げる」、という計量分析結果を示している。
展望レポートでは、円安の具体的効果について、
①輸出企業の価格競争力改善を通じた輸出数量増
②輸出金額の増加を通じた収益の増加
③訪日外国人によるインバウンド消費の増加
④外貨所得の円換算値でみた増加(所得収支の改善要因)
⑤輸入コスト上昇による国内企業収益減少と消費者の購買力低下
がある、としている。
複雑な効果の全体像を計測するためにVARという計量分析手法を使っている。
しかし、上記①~⑤を一瞥すれば明らかなように、円安の恩恵を受けるのは主に輸出企業であり、輸入物価上昇によって被害を受けるのは内需依存型企業や消費者等である。日本経済の全体を足し上げれば若干のプラスであっても、両者は正反対の大きな影響を受ける。
それでは、その利益と損失の大きさはどのくらいの大きさだろうか。
第一次接近として貿易経由の影響をとりあげてみよう。展望レポートも指摘しているように、円安による財輸出数量の押し上げ効果は近年低下しあまり働かないことが知られているので、単純化のために円安が数量に影響を与えず価格だけを動かし、輸出金額・輸入金額を比例的に変化させると仮定して、その分の効果をみることにしよう。
2022年平均の為替レートの変化がどの程度になるかはわからない。ここでは、2021年平均では110円程度だった円ドルレートが、2022年には10%程度円安の121円程度になるとする。2022年上期は123円程度、本稿執筆時点では米国の景気悪化懸念で米国金利上昇予想が修正されることによる円高への揺り戻しが起き、133円前後になっている。しかし、この試算では円高方向へさらに揺り戻しが続き、下期平均では120円を少し割り込む、という円安効果を大きく抑えた想定になる。
昨年の輸出入金額(通関ベース)は輸出83兆円、輸入85兆円強だから、10%の円安が輸出入金額を10%比例的に増加させるとすると、おのおのの金額は8兆円強増加する。それだけ輸出企業の利益を増やし、輸入関連企業や消費者には負担になる。この金額は消費税4%にあたる大きな金額で、それが消費者や内需企業等に賦課される同時に、ほぼ同額が輸出企業への補助金として交付されるのに等しい。
むろん、円ドルレートだけを使った試算は大胆すぎる、とか、最近の円安の損得だけを議論すべきでない、といった意見もあるだろう。それらのありうべき批判をふまえて、次回はもう少しこの問題を掘り下げてみよう。(明日公開の後編へ続く)