「他人の目を気にしすぎる人」に共通する、たった1つの特徴

SNSの総フォロワー数は300万人を超え、YouTube動画の月間再生数は3億回を超えるなど、現在、日本中で大ブレイク中のひろゆき氏。
彼の最新刊『99%はバイアス』では、「ブレイクの秘訣」を明かし、「どうすれば影響力を持てるのか?」「口のうまい人がトクする世の中で、どう生きるべきか?」などをマジメに語った。
今回は、本書の発売を記念し、特別インタビューを実施。「他人の目を気にしてしまう」という悩みについて、ひろゆき氏に解説してもらった。(取材・構成/川代紗生、撮影/榊智朗)

「世間の求める自分」がもたらす人格の乖離

──自分を盛ること、セルフブランディングしすぎることが、メンタルにどんな影響を与えると思いますか。

ひろゆき:メンタルに影響がある人と、影響がない人に分かれると思います。たぶん、矢沢永吉さんとかは、影響がない人だと思うんですよね。スタッフに、「俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?」って言ったという、有名な話もあるくらいで。

 つまり、「世間の求める矢沢永吉はこういうことはしない」みたいな人格が明確に固まっていて、「人間:矢沢永吉さん」と「アーティスト:矢沢永吉さん」の間に、おそらく大きな乖離はあるけれども、それがストレスになってないタイプの人じゃないかなと。

 役者やYouTuberで突然失踪したり、奇行したりするのは、その乖離に耐えられなくなった人なんでしょうね。

堀江貴文さんとの共通点

──芸能人だけでなく、一般人でもあると思うんです。稼ぐためにセルフブランディングしてたけど、人をダマしているような気分になってくるとか。

ひろゆき:会社員とかでもあると思いますよ。「多少のセクハラぐらいは大丈夫」「お酒が大好き」というキャラでやってたけど、本当はつらい……、みたいな。そのキャラとして振る舞うことが当たり前になっていて、周りも「あいつはこうするだろう」と期待しちゃってて、本当はやりたくないけど、「もうやりたくない」って言えるタイミングを見失ってしまった……というパターン。

 特に、営業系の仕事をしている人は、取引先に気に入られたキャラを続けなきゃいけない、みたいなことありますからね。

──ひろゆきさんは「ひろゆきさん」というキャラクターに対してストレスは感じませんか?

ひろゆき:えーっと……。他の人とたぶん、アプローチが違っていて。似たようなやり方をしていたのが、たぶん堀江貴文さんくらいかなぁと思うんですけど。

 堀江さんとか僕って、「世間が思う像と、勝手にその人を動かしてしまう周り」がいても気にならないんですよね。Twitterでつぶやいたことをスポーツ新聞が適当な記事にしたり、YouTubeでは切り抜き動画をつくられたり、最近だと「おしゃべりひろゆきメーカー」っていう、僕が言っていないことを勝手にしゃべらせる機械が流行ったり(笑)。世間が言っていることと、本人が言っていることの乖離がどんどん広がっていくんですよね。

 でも、僕のキャラを統一しなきゃいけないとか、僕のキャラはこうでなきゃいけないとか、「人間:西村博之」が「ひろゆき」に合わせなきゃいけないという感情が、僕にはそもそもないんですよね。

まわりからの印象は
100%コントロールできない

──昔からそういう性格ですか?

ひろゆき:「2ちゃんねるの管理人」としてメディアに出るようになったときから、世間のイメージと、実際の僕が違うのは日常だったので、昔からですね。「2ちゃんねるをつくった人だから、きっとこういうタイプなんだろう」みたいに、思い込みで判断されるのが当たり前で。

 その「ひろゆき」像に実際の僕を近づける必要性も感じないし、逆に、世間の「ひろゆき」像を変える必要性も感じないので、何十年もそのままですね。

──たとえば、ひろゆきさん、「はい論破」って一度も言ったことないのに、一般的にはひろゆきさんの口癖みたいに思われてるじゃないですか。そういうの、私だったらすごく否定したくなっちゃうと思うんですけど。

ひろゆき:あー……。そう思ってる人全員に「違うよ」って伝えて、考えを変えてもらうのは不可能だとわかってるんですよね。

 僕が自分で書いた文章すら、「ひろゆきはこう言ってた」と誤読する人がいるので、僕が直接書いたわけじゃない、たとえば、他の人が書いた「ひろゆきってこうらしいよ」みたいな噂レベルのことまで修正するのは、もう不可能なんだろうなと思うんです。

 なので、「キャラクター」と「本当の自分」の乖離に苦しむ人は、その2つを近づけようとするから苦しくなるんでしょうね。本当の自分を知って受け入れてもらおうとしたり、逆に、演技してキャラクターに寄せようとしたり。でも僕は最初から、「キャラクター」と「僕」の距離が離れたままになっているんです。完全に放っておいてるので、別に「ひろゆき」がどう広がっていこうと、どうでもいい。