9月27日の元首相、安倍晋三の国葬に続き、10月15日には安倍の地元、山口県下関市で県民葬が行われ、安倍の弔いは一区切りついた。その一方で決着を見ないのが、安倍が率いた自民党最大派閥の安倍派(清和政策研究会)の後継者選びだ。安倍の急死後、「国葬までは現体制維持」を申し合わせていたが、10月13日の派閥の総会でも結論が出ず、決定は先送りされた。
その背景について、今も安倍派全体に影響力を持つ元首相の森喜朗はこう解説する。「会長を誰かに決めるとなると、あつれきが生じ、それがもとで分裂する要素が生まれる」
安倍派内では最長老の元防衛庁長官、衛藤征士郎が主導して会長代理の塩谷立を会長にする案があったが、安倍によって国会議員になったいわゆる「安倍チルドレン」を中心に反対論が噴出した。
もともと安倍は自らの再々登板への意欲を持っていたとみられていた。そのためだったのだろう。後継者づくりについて安倍は極めて消極的だった。確かに安倍は将来のリーダー候補は誰かについて、具体的な名前を挙げたことがあった。自民党政調会長の萩生田光一、官房長官の松野博一、経済産業相の西村康稔、元文部科学相の下村博文の4人だ。ただし安倍は4人の優劣をつけることはなく、競わせることもしなかった。むしろ巧みに人事で処遇しながら突出した後継者づくりを避けてきた。
この間に安倍派内で発言権を増大させていたのが、自民党参院幹事長の世耕弘成だ。世耕は総理・総裁への意欲を隠さず、その前提として参院から衆院へのくら替えを公言してきた。今年3月に放送されたBSテレ東の報道番組では明快に意欲を表明した。「政治家になった以上はチャンスがあれば国のかじ取りをするトップの立場をやってみたい」
今回の安倍派の後継会長選びでも世耕は積極的な動きを見せた。安倍派の参院議員38人の「連判状」をまとめたのだ。関係者によると、連判状では「安倍会長の遺志を継いで一致団結する」との趣旨が書かれている。具体的な次期会長名については触れずの示威行動と言ってよかった。