赤いサーブ900が印象的な映画「ドライブ・マイ・カー」。原作は村上春樹氏の短編小説で、上映時間179分のこの作品が不思議な余韻に満ちているのは、人間の深層心理と結び付いているからかもしれません。(解説/僧侶 江田智昭)
仏教が描く「深層意識」の世界
村上春樹氏の短編小説を原作にした「ドライブ・マイ・カー」は、アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞するなど大きな話題を呼びました。ご覧になられた方も大勢いらっしゃることでしょう。
作品の終盤、車中で高槻耕史(岡田将生)が家福悠介(西島秀俊)に対し、「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」と語り掛けます。共に愛した女性が亡くなり、心に傷を抱えた二人によるこのシーンは非常に印象深いものとなっています。
「他者ではなく、自分自身を見つめることが仏教では重要である」ということを何度もこの連載の中で述べてきました。仏教の教えはよく「鏡」に譬(たと)えられます。仏教の教えに深く触れるということは、ある意味「自己の心の深い部分をのぞき見ること」でもあります。
ですから、仏教には人間の心の深層に関する論考が存在します。みなさんは「唯識(ゆいしき)」という言葉をご存じでしょうか?これは大乗仏教の瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派の見解です。
この世界は自分の「識(心)」が作り出したイメージであり、その「識」とは「眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)・意識(自覚的意識)・末那識(潜在的意識)・阿頼耶識(前の七つの意識を生み出しつつ、世界を作り出している最深層の意識)」の八つの識から成り立っている、とするものです。
つまり、「唯識」とは文字通り、世界にはただこれらの「識(心)」のみが存在し、「識(心)」以外のモノは存在せず、世界自体は自分の「識(心)」が作り出した影像にすぎないという見解です。これは非常に画期的な見解であり、「唯識」はある意味、仏教による「深層心理学」とも表現できるかもしれません。
村上氏の数々のインタビューを読むと、心を「井戸」に譬え、小説を書く中で「井戸に潜る」という言葉がたびたび登場します。彼にとって小説を書く作業は、「自身の心の深層意識(心理)の中に深く潜っていくこと」とイコールなのでしょう。このような深層意識の表現については数多くの研究者が関心を寄せており、仏教の「唯識」の見解と比して、「村上春樹と唯識論」というような論考も存在します。
村上氏は心の深層意識をよく「地下二階」と表現しています。この自身の心の奥深くに存在する「地下二階」の部分は、プライベートな空間ではなく、そこには他者とのつながりや共通の基層があり、そこで交流を図ることが可能である、ということのようです。おそらく、この考え方が根底にあって、今回の掲示板の言葉が生まれたのでしょう。
国境を超えて、膨大な数の人々が村上氏の小説に強く共感している現実を目の当たりにすると、このような考え方を簡単に否定することはできません。心というものは、とてつもなく広大であり、その深層部分はいまでも非常に多くの謎に満ちています。それは非常に複雑怪奇であると言えるでしょう。
このような心の深層意識は、夢に現れ出てくるとも考えられていました。鎌倉時代の華厳宗僧侶で、京都の高山寺中興の祖である明恵(みょうえ)は、約40年にわたって自分自身が見た夢をすべて記録していたことでも知られています。夢に表出する自身の心の無意識の部分(深層意識)を観察する意図があったのでしょう。このあたりのことは、心理学者の河合隼雄さんが詳しい考察をされています。
深層意識も含めた自分の心の全容は一体どのようなものなのか?その答えは誰にも分かりません。わたしたちは、目に映し出される世界(影像)ばかりを強く意識して普段生活を送っていますが、たまには心の奥底をのぞき込んで観察してみることも大切ではないでしょうか。