日本には「思想の自由」がない
「前と同じ」「みんなと同じ」をよしとして、変化を恐れる日本という国には、「思想の自由」がありません。
そう聞くと、「日本は民主主義国家じゃないか」「中国やロシアのほうが、よほど不自由だ」と思われるかもしれません。
たしかに、中国やロシアには「言論の自由」はありません。報道の自由や、表現の自由もないと言っていい状態です。しかし、「思想の自由」はあります。習近平国家主席に聞こえないところで彼を批判する中国人はいくらでもいます。プーチン大統領のやり方に不賛成なロシア人もいます。言論の自由がないから口に出すのを我慢しているだけで、心のなかで抱く思想は自由です。そして、プーチン大統領や習近平国家主席が失脚すれば、自由に彼らの批判をすることでしょう。
日本はその逆です。言論の自由は保障されていますが、思想が見えない力で縛られているのです。匿名で投票ができるのに、まったく日本経済を成長させてくれない自民党に票を入れ続ける。「民主党政権時代は暗黒だった」と言われたら、そう信じ込む。今の状態を変えることに過剰な不安を覚えて、野党に票を投じず、新しい選択をしない。自由なはずの国において、なぜかその権利を行使しないのです。バイアスに縛られて自由な思想ができず、常に政権与党に有利なような投票行動をするほうが、思想の自由がないように思えます。
政治スキャンダルに対してもそうです。政権が民主主義国家として守るべきことを守らなくても、批判の声が上がるには上がるものの、いつも一過性で終わります。報道番組やワイドショーが一時は騒ぎ立てますが、やがて別の話題を流しはじめます。すると批判の声もみるみる小さくなり、さらに時間が経つと、怒り続けているわずかな人のほうが、肩身が狭くなっていきます。
権力に対して批判的な人は、しばしば「左の人なんだね」といった言葉を、ネガティブなニュアンスで投げかけられます。変わり者、小難しい人、お近づきになりたくない人、などのニュアンスです。このような「左」に対するネガティブイメージにも、変化を嫌う国民性が垣間見えます。