会見で掲げられた
「夢ある限り、道は開ける」に隠された思い
華やかに映る一方で、俊輔のサッカー人生は挫折や悔し涙の方が多かった。
身長の低さがネックになって、マリノスのジュニアユースからユースへ昇格できなかった。当時のフィリップ・トルシエ監督の構想に最後まで合わず、02年の日韓共催W杯代表から落選した。念願のW杯代表に名を連ねた06年ドイツ、10年南アフリカ両大会はともにコンディションをピークに持っていけず、マリノス復帰後の13年には最終節の敗戦で優勝を逃し、人目をはばからずに号泣した。
それでも会見で言及したように「ちょっとずつ上にあがれた」という過程で、独自の選手像を確立した。その一つで代名詞になって久しい直接FKを、俊輔は意外な言葉で振り返っている。
「それ(直接FK)だけと言われるのが嫌なので、意識したのはプロに入ってから。それまではゲームを支配する力、ドリブル、パス、スルーパスのちょっとしたおまけだった。こだわりはPKと同じくらいの感覚で決めるんだという意識。蹴ったら必ず決まるという状況をチームメートに見せて信頼してもらう。それはキック以外のプレーもそうだけど、それはこだわりだと思う」
そして、敵陣の中央で常にボールを託され、さまざまな選択肢から味方の攻撃を差配するトップ下というポジションをサッカー界の内外に広く認知させた。希少価値になりつつあるポジションだからこそ、若い頃からお互いに意識してきたMF小野伸二(北海道コンサドーレ札幌)へもエールを送る。
「今の時代という言い方はあまり好きじゃないけど、中央は360度から相手のプレッシャーが来る。でも、そこのポジションにすごい選手が出てきて、必要になることもあると思う。そういう選手を潰さないようにしたい。(小野)伸二がまだやるので、すごく期待しています」
俊輔が貫いた、人生訓にも通じる「ちょっとずつ上に」を後押ししたのが松田さんの口癖だった。30歳という節目を超えてから、松田さんはサッカーを続けていく上でのテーマをこう設定していた。
「失敗した時こそ、上を向け」
俊輔自身も11年前の柏戦を「本当に残念でしたけど、それでも次に進まなければいけない。そういう思いでプレーしていました」と振り返っている。そして、前だけを見すえる姿勢は引退会見のテーマに設定された、俊輔自らが選んだ言葉にも合致する。
「夢ある限り、道は開ける」
なぜこの言葉を選んだのか。答えは会見で「キャリアで最も胸を張れること、誇れることは」と問われた俊輔が言及した、高校時代に毎日のように記し続けたサッカーノートにある。
「目標に向けて努力できたことですね。高校の時にサッカーノートを書くようになって、中期、長期と分けて目標を立てていったなかで、どんどん目標を越えてかなえていくことができたので」
ノートにはマリノスでプロになる中期的な目標に始まり、マリノスでレギュラーになって「10番」をつけること、日本代表でも「10番」を背負って中心選手になること、そしてW杯の舞台で活躍してヨーロッパのビッグクラブへ移籍する長期的な目標などがぎっしりとつづられている。
俊輔自身は「W杯とビッククラブで活躍する二つはかなえられなかったね」と苦笑しながら振り返ったことがある。それでも、大切なのは結果ではなく挑戦し続けた過程。夢がなければ何も始まらない。自身が紡いできたキャリアを、55歳の現役最年長選手、FW三浦知良(鈴鹿ポイントゲッターズ)とクラブチームでは初めてチームメートになった2年半を含めて、俊輔は胸を張って振り返った。
「サッカーは生きがいであり、全て。それに尽きます。原動力は単純に自分の中から出てくる、サッカーが好きでうまくなりたいという情熱。上に行くにしたがって似たような選手が集まるけど、まさかカズさんと一緒にできるとは思わなかった。自分よりサッカーが好きな選手と会えたのは財産ですね」
ノートを記さなくなって久しい俊輔だが、今年6月に新たな、そして現役選手として最後の目標を立てている。慢性的な痛みに悩まされていた右足首に2度目の手術を受け、状態が良くなってきた感触を確かめながらもう一度ピッチに戻ると決めた。そして、引退を最初に夫人へ告げた。先発出場し、後半15分までプレーした10月23日のロアッソ熊本とのJ2最終節が最後の勇姿となった。