『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の“勇気シリーズ”が世界1000万部を突破した。特筆すべきは、欧米圏での部数が約230万部に達することだ。その立役者とも言えるのが、著作権エージェントであるタトル・モリ エイジェンシーの玉置真波さん。
エージェントの主な仕事は、海外と日本の出版物をそれぞれ編集者に紹介し、適切なルートで翻訳版を読者に届けること。タトルは“勇気シリーズ”海外展開において、アジア数ヵ国を除くすべての国の版権を担当し、文字通り世界中に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を広めてきた。
そもそも日本語の書籍、とくに小説やマンガ以外のノンフィクションの作品が欧米で翻訳されることはほとんどない。なぜ、そんな高いハードルを乗り越えて30以上の国・地域・言語への展開を実現できたのか? 玉置さんの情熱と戦略を聞いた。(構成/田中裕子)

日本発の『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を世界展開Photo: Adobe Stock

「売れない理由」しかなかった

──“勇気シリーズ”が世界で1000万部を超えました。世界中のさまざまなノンフィクションを取り扱ってきた玉置さんは、はじめから、これだけの大ヒットになると考えていらっしゃいましたか?

玉置真波(以下、玉置) いえいえ、これほどのヒットになるとは想像できませんでした(笑)。私はエージェントの仕事に就いて30年になります。選りすぐりの海外作品を適切な日本の編集者につないだり、弊社のアジア担当が日本の作品をアジア各国へ広めたりすることには自信がありますが、ノンフィクションの版権を欧米に売り込んだ経験はなかったんです。

 そんな私が本作品の世界展開にかかわるようになったきっかけは、『嫌われる勇気』を欧米圏になんとしても広めたいとのお話を、編集担当の柿内芳文さんとダイヤモンド社の今泉憲志さんからいただき、「勇気チーム」の熱い思いに触れたからです。

 柿内さんから「世界で1億人に読んでほしいんです!」という信じられないような言葉を聞いたそのミーティングは2014年夏、13年12月の刊行から約8ヵ月が過ぎ、国内で40万部を突破された頃です。アジアでは中国、韓国、台湾などで翻訳契約が続々と決まっていたそうです。

「世界で1億人」ならば当然、欧米でも読まれなければなりません。しかし残念ながら、この地域から日本のノンフィクション書籍に翻訳の問い合わせやオファーが来ることは、ほぼ100パーセントないんですね。

『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を世界展開した著作権エージェント玉置真波(たまおき・まなみ)
著作権仲介エージェント
慶應義塾大学法学部卒業後、1993年に株式会社タトル・モリ エイジェンシーに入社。現在は同社取締役。主に欧米事業、ノンフィクションを担当。版権を取り扱った主な書籍は『「静かな人」の戦略書』『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』『限りある時間の使い方』『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』『GRITやり抜く力』『チーズはどこへ消えた?』など。

──なぜでしょう?

玉置 まず、言語の問題。アジア各国では日本語のまま検討してもらえますが、欧米向けにはこちらで英語に翻訳した素材(試訳)を作る必要があります。ただし、魅力ある英語に翻訳するにはコストがかかりますし、版権が売れなければその分のお金は回収できない。つまり、出版社側にリスクがあるわけです。

 また、アジアは世界全体で見れば文化圏も近いので、読者もなじみやすいし、日本式の商売が通用します。一方、欧米では読者のバックボーンが日本人とは異なりますし、出版業界にも200年続いてきた商慣習があります。たとえば取引のスピード感は日本の数倍速いのですが、そこに合わせる必要もあるわけです。

 さらに──ここがもっとも大きなポイントですが──そもそも欧米には、日本の一般書ノンフィクションの市場がほとんどなかったのです。

 アジアや英語以外の言語を使用する国では翻訳書の構成比率が全体の数十パーセントになることもありますが、英語圏での他言語からの翻訳書のシェアは1~3パーセントと言われています。ここには学術書も含まれるとされており、一般書はもはや統計をとれないくらい小さな市場と言われてきました。そのなかで、さらに日本語のノンフィクションとなると……。

 海外の方と話して、すぐに書名があげられる日本のノンフィクションは、岡倉天心が英語で日本文化を紹介した『茶の本』、新渡戸稲造の『武士道』、そして時代が大きく下り、こんまり(近藤麻理恵)さんの『人生がときめく片づけの魔法』くらいでしょうか。……すごいラインナップでしょ?(笑)

──はい、きわめてレアケースだということが伝わってきます。

玉置 また、これらの作品を見てもわかるとおり、海外の人は「ジャパニーズネス(日本らしさ)」から学ぶために日本人の本を読んでくれます。新しい思考のフレームワークや世界基準の知識を得たいから翻訳書を手に取る、というのは日本でも同じですよね。

 では『嫌われる勇気』はどうかというと、テーマは「アドラー心理学」。アドラーはもともと150年前のヨーロッパの方ですから、売り込んでも「今なぜわざわざ日本人から学ばなければならないんだ」という反応になることは明らかでした。

 つまり、日本からベストセラーを見つけようとするアジアとは勝手がまるで違ううえに、日本のベストセラーを翻訳出版してヒットさせようという風潮がまったくないところに挑むわけで、「難しいチャレンジだということをわかっていますか」と、柿内さんと今泉さんに厳しいことを申し上げたのを覚えています(笑)。でも、それがリアルな所感だったんですね。

それでも「売りたい理由」があった

──お話を伺うと、その時点で「世界1億部」はおろか、英語圏への展開をあきらめてもおかしくないと思うのですが……。それでも玉置さんが「挑戦しよう」と思われたのはなぜですか?

玉置 最大の要因は、まずなんといっても作品の強さを感じたことです。『嫌われる勇気』は質の高い日本のベストセラーとして売り込める、世界の出版界のメインストリームで勝負できる本だと思ったからです。よりよく生きる選択肢を、日本が世界に提示できるたぐいまれな本だと思いました。

 2つ目が、「岸見アドラー心理学」だったこと。『嫌われる勇気』はヨーロッパのアドラー心理学をそのまま解説した本ではなく、著者のお一人である岸見一郎先生が子育てや臨床カウンセリングを通じて自分なりの、そして日本らしいアドラーに昇華された内容だと感じました。「ジャパニーズ・アドラー」と言えるオリジナリティがあるため、受け入れられる可能性があると感じました。

 3つ目が、本ができるまでのストーリーがすばらしいこと。まだ20代だった共著者の古賀史健さんが岸見先生のご著書『アドラー心理学入門』に感銘を受け、岸見先生の本を作りたかったけれどなかなか仲間が見つからず、ようやく柿内さんという最高のバディに出会い、10年以上の時を経てふたりで京都の岸見先生のところに行き、日夜話を聞いて問答して、ついにダイヤモンド社さんから刊行……。最初の打ち合わせでこのストーリーをうかがって、実際の取材時のお三方の問答が本書のベースになっているからこそ、架空の人物によるフィクショナルな対話でありながら、リアリズムに基づいたノンフィクション作品になったことを知り、なんて素敵なんだろうとうれしくなったんです。

 ここまで「世界に届けたい」要素が揃っている本は、なかなかない。そう思い、「やらせていただきます」とお返事したのです。今だから言えることですが、思いっきり背伸びをして、力が及ぶ範囲でできることをすべてやれば、いずれ手探りでたどり着けるだろうと思っていました。30年にわたるエージェントとしての勘所、人とのつながりや知識やノウハウを総動員して、です。

 あと、お引き受けした時点で、世界展開できるまでけっして諦めないつもりでした。これは作品力の高さと「勇気チーム」の皆さんの熱に感化されたからだと思います。大変なのはわかっているけれどわくわくしたんですね。版権仲介の役割を担うメンバーとして、創造的なチームに参加させていただけることがモチベーションとなりました。

英語原稿がなければ
話が始まらない

──「世界に届ける」と決めたあと、まず、何をされたのですか?

玉置 まずは英語の素材(試訳)をつくる作業に入りました。ダイヤモンド社さんから、哲人と青年の対話篇という特殊なつくりの本なので、あの雰囲気をうまく訳出した原稿を用意してほしいと依頼をいただいたのです。たしかに原文の完成度が高いので、青年と哲人の熱量がそのまま伝わる「いい英語」に仕上げる必要を強く感じました。そのため、下訳をする人の選定から発注、進行管理からチェックなどの工程を繰り返し行いました。

 ただ、この作業はダイヤモンド社さんにとってもコストが相当かかりますから、まずはイントロダクションから第1章まで翻訳して海外に持っていくことにしたのです。けれど「これじゃ判断がつかない」と言われるばかりで。ただ、「話にならない」という感じではなく「もっと読みたい」というニュアンスだったので、可能性があるのではないかと感じたのも覚えています。

 じゃあもう少し、もう少しと、結果的に3回に分けて翻訳作業をすることになりました。原文と翻訳文を突き合わせて確認したり、より青年と哲人の「声」に近づけたり、いい読書体験となるよう全体を磨き上げたり。岸見先生と古賀さんにも文章はもちろんアドラー心理学の用語等をチェックしていただきました。時間も工数もかかりましたが、結果的に良質な訳にできたと思います。これが最初のハードルでしたね。

海外のエージェントとバディになって

──そこから、どのようにして世界展開を?

玉置 『嫌われる勇気』は、ダブル・エージェントという方式を採っています。アメリカ在住の旧知のエージェントに、タトルとともに世界中に版権を紹介するパートナーとなってもらい、二人三脚でやってきました。

 おもしろかったのが、彼女のティーンの娘さんの話です。『嫌われる勇気』の試訳を読ませたところ、「読んでやったわよ!」とトゲっぽく言われたけれど(笑)、その娘さんがアルバイト先でモメたときに「第2章の手法を使ってみたらうまくいった」と報告してきたんですって。この本は一読すれば世界観が変わりうるほどインパクトのある作品なので、世界中の人に読む機会を提供できるようがんばろう、との合意はしてもらっていたのですが、難しい年頃の娘さんが、読んで、覚えて、使って、効果を実感した。それで彼女も「この本はすごい」「世代を超えて強く訴えることができる」と確信をもてたそうです。

 そんな彼女とは、2016年にアメリカ西海岸沿いを2泊3日でロードトリップに出ました。柿内さんと古賀さんのバディに影響を受けて(笑)。

 前述のとおり『嫌われる勇気』は「売りづらい理由」もたくさんあったので、クチコミで売るしかないと考えていました。岸見先生と古賀さんのご活動や積み上げてこられた実績は、日本では広く知られていますが世界ではまだ知られていません。つまり目の前の試訳と私たちのピッチが勝負の分かれ目になります。ですが、心からこの作品を信じてくれるパートナーでないと、熱のあるプレゼンをすることができません。

 そこで海岸沿いを二人でドライブしながら、この本の試訳やトーンのブラッシュアップ、営業アプローチについて作戦を練ったり、私が彼女に「こういう成り立ちで、こんな本で」とインプットしたりして、宿でもずっと話をしていました。彼女がクチコミで広げられるくらい、『嫌われる勇気』を体得してもらったんです。

日本発のノンフィクション書籍を世界に売り込む「不可能なミッション」はなぜ達成できたのか?アメリカ西海岸沿いを2泊3日でロードトリップしたときの写真。『嫌われる勇気』の世界展開をじっくり話し合った。

 そんなロードトリップを経て、同年、ロンドンブックフェアとフランクフルトブックフェアに持っていきました。2016年のことですね。その年末、オーストラリアから契約条件の提示が得られたのです。念願の英語圏です。

──最初の打ち合わせが2014年夏ですから……2年半!

玉置 ええ。それまでも、当時は年に5~6回あった海外出張の機会を使ってこの本をプッシュしていました。世界中の多くの人を巻き込みました。

 海外の本を日本で翻訳出版するために売り込みをする場合は、数週間から数ヵ月で契約が成立することが多いのですが、それに比べると、日本のベストセラーを欧米(アジア以外の世界)で翻訳出版する反対の流れにおいては、能動的な営業をするためにとてつもなく手間暇がかかることがお分かりいただけると思います。

 そんなふうに粘り強くアプローチできたのも、ダイヤモンド社さんが権利者の方たちの意向をまとめ「すべての地域の版権を一括取り扱いにする」「結果がいつ出るかはわからないから急かさない」といった条件を飲んで、すべて託してくれたからこそです。おかげでタトルとしても、人と時間を全力で投入することができました。メンバーがみなトップランナーだからこそ理解してもらえた部分もありますし、それこそアドラーが言うところの「信頼」のあるチームだったと思います。

(後編に続く)