身体が未知へアプローチする入口になる
「未知」の本質とは何か?と考えたとき、「人間の理解の外側」と表現することもできるでしょう。人類はこれまで、さまざまなものに名前をつけ、頭で理解できるかたちに分類し、活用してきました。こうしてかたちづくられたのが人間の世界です。しかし、この外側には、まだまだ広大な未知の領域が残されています。
例えば、未踏の大自然は典型的な未知です。当然、頭で理解できるデータや、どうすればうまく扱えるかというナレッジはありません。このような「大きな未知」にアプローチする場合こそ、身体で向き合い、身体で考えていくことが重要である事は想像に難くありません。
もちろん、一人一人の身体で向き合えるのは、広大な未知の領域のうち、ほんの小さな部分にすぎません。しかし、身体知は、対象を多角的に感じる体験を重ねれば重ねるほど鍛えられ、無意識の解像度が上がり、理解もより深くなっていきます。すると、やがて部分に含まれた全体が語りかけてくるようになるのではないでしょうか。
寿司職人が、100回、200回、300回……さらに何千回もマグロの握り寿司を握る体験を重ねていくと、そこから知覚できるマグロの情報の総量がどんどん増えていくでしょう。最初は寿司ネタとしての鮮度や弾力だけを知覚していた手が、やがてマグロという生物種のあり方、さらには大西洋が今どうなっているのかまで、統合的に感じられるようになっても不思議ではありません。それは、身体による思考を重ねた人だけが見える世界なのだと思います。