日本では配当を支払うことは企業の義務であるかのように思われていますが、米国で配当を支払う企業はもはやなくなりつつあることをご存じでしょうか?
ビジネスパーソンの勉強に大事なことは「わかっていたと思っていたことが、実はわかっていなかったとわかる」ことに意義があると、大阪公立大学の宮川壽夫教授はミンツバーグの言葉を引用して言います。『新解釈コーポレートファイナンス理論~「企業価値を拡大すべき」って本当ですか?』の著者である宮川教授に、今回は「配当政策」を例にして社会人が理論を学ぶことの大事さについて語ってもらいます。

社会人の学びは、「変数を増やす」ことを意識したいPhoto: Adobe Stock

そもそも、われわれは何を知っていて何を知らないのか?

 大学院で戦略論を勉強するとだいたいヘンリー・ミンツバーグの著作を少なくとも一冊は読むことになる。ミンツバーグは『マネジャー論』や『戦略サファリ』といったことさらユニークな著作を持つ経営学の大家だ。彼はとてもおもしろいことを言っている。

「よいクラス(good class)は、わからなかったことが、わかるようになる。もっとよいクラス(great class)は、わかっていたと思っていたことが、実はわかっていなかったとわかる。」(※)

 私は企業研修などの冒頭でこの言葉を紹介するのだが、すでに実務を経験している社会人にとって必要なのは、おそらく経営現場のケーススタディをたくさん知って記憶することではない。社会人が勉強する構え方としては、そもそも自分は何を知っていて、何がわかっていないのか、あるいは企業とはナニモノで、目の前にある自分の仕事とは一体どういう関係にあるのかといった抽象的な問いを持ち続けることだと思う。言わば経営の根幹を問おうとする哲学的な姿勢を維持することだ。

 本を読んで「そうか、なるほどこうやって解けばよかったんだ!」と膝を叩いて「わかる」のは高校生までの受験勉強であって、社会人は勉強したからといって目の前の問題が解決するわけではない。しかし、社会人が勉強すると自分がこれまでものを考えるときにどれくらい不自由だったのか、どれくらいコンベンショナルな思考の檻に囚われていたのかが身にしみる。これは社会人大学院に通った私の経験から言えることだ。

消えゆく現金配当?

 ましてや企業経営に関する問題はアカデミアの世界でもわかっていないことが多い。むしろわかっていることの方がずっと少ないと言うべきだろう。たとえばコーポレートファイナンス理論では配当の問題などがその典型だ。マートン・ミラーとフランコ・モジリアーニが1961年に「配当を増やしても株主価値は拡大しない」という配当無関連命題(配当政策のMM理論と呼ばれています)を発表して以来ずっと研究が行われているが、配当が株主価値に与える影響どころか企業はなぜ配当を支払うのかということすら実は今なおよくわかっていない

 それなのに日本では配当を支払うことはもはや企業の義務であるかのような因習的な考え方がずっと蔓延っている。たしかに東証プライム市場に上場している企業で言えば現金配当を支払っている企業は90%を超えている。配当を支払わないなんて許されない雰囲気だ。しかし、こと現金配当に限れば、米国企業で配当を支払っているのはたかだか30%程度しかない。もちろん株主還元の方法が自己株取得にとって代わったという事実はあるにせよ有配企業比率の日米差は格段に大きい。このことは2001年にユージン・ファーマとケネス・フレンチが「Disappearing dividends」という衝撃的なタイトルで発表した論文以来、配当関連の分野では繰り返し研究が行われている(当時はCRSPという米国4000銘柄を含むインデックス採用企業のうち配当を支払ったことがある企業はわずか20%でした)。

わりやすい話と単純化された話の違い

 税金を考慮すれば、企業が配当を支払うと株主の価値は税金の分だけ毀損されるし、配当の多寡に何らかの企業情報が潜んでいるとすれば逆に配当は株主価値を創造するかもしれない。1961年のMM理論を契機にして配当の研究は飛躍的に発展し、いくつもの配当理論が生み出されたが、それぞれの理論は互いに対立し、矛盾している。あっちを立てればこっちが立たない。この複雑さを研究者たちは「配当のパズル」と呼んで棚上げになったままでいる。

 しかし、これまでの研究によって築き上げられた配当理論を学ぶことは重要だ。どのような配当政策が相応しいかは、企業の業績、将来の予想や戦略、成長ステージ、株主の状況、さらにはマクロ環境や業種も含め、企業によって異なる。各企業が置かれた状況の中に特殊解として複雑に埋め込まれている。配当の基礎理論を持っていればその特殊解に向かってまず思考を開始することができる。どこから考え始めればいいのか、少なくともその道筋は示される。逆に理論を持たずに何かを決めようとすることは暗闇で刀を振り回しているのと同じだ。

 以前、実務の方から「配当にはいろいろな考え方があると思いますが、その理論を教えてください。そうすれば後は我々で考えることができますから。」と相談されたことがある。こういう態度の方には全面的に協力したくなる。このタイプの人はまず自分が何をわかっていないかを探る努力をする。そして規範や流行を鵜呑みにするのではなく、どこまでを理論に頼ってどこからを自分で考えなければならないかを知っている。だから間違えたときにはなにを修正すればいいかがわかっている。いわゆるデキる人だ。

 一方「理論はともかくとして結局のところうちはいくら配当払えばいいんですか?」と言われると「それはちょっと……」と口ごもるしかない。もともと複雑な話をしている。わかりやすい話をすることには努力できるが、「話を単純にしてくれ」と言われてもそのリクエストにはお答えできない。複雑なものをわかりやすく話すことと、複雑なものを単純化して話すこととは違う。

複雑化とは変数を増やすこと?

 経営環境を取り巻く世の中の変化は複雑化している。ちょっと月並み過ぎる表現ではあるが、多くの反論はないだろう。「複雑化している」という表現は「変数が増えている」という表現に置き換えていいかもしれない。配当政策ひとつ取ってみてもそうだ。資本は国境を超えてダイナミックに移動し、現在の企業の株主構成は実に多様だ。個人株主だけでなく機関投資家もいれば外国人株主もいる。機関投資家はさまざまな投資手法やポリシーによってまちまちだ。MM理論が発表された当時と比べれば配当政策に影響を与える変数は株主の多様性という点を考えただけでも確実に増えている。

 その増えた変数を一つ一つ丁寧に認識し、加えていくことによって配当政策ができ上る。「まあだいたいこんなところだろう」というような安逸な考え方ではなく、もちろん横並びではなく、それぞれの企業の利益還元に対する考え方があるのだと思う。

 冒頭で紹介した「わかっていたと思っていたことが、実はわかっていなかったとわかる」のが「グレイトなクラス」なんだというミンツバーグの名言は、つまりもっと変数を増やせと主張しているように思われる。複雑なものを複雑なものとして受け容れ、単純化すべきではないということなのかもしれない。次回、この点をもう少し引きずりながらコーポレートファイナンスの闇を考えたいと思う。

(※)Mintzberg, H.,1994, ‘The fall and rise of strategic planning’, Harvard Business Review(January-February),107-114