「読書するネコ」のアイコンでもはやお馴染みとなっている『新解釈コーポレートファイナンス理論~「企業価値を拡大すべき」って本当ですか?』は、発売されるや「ワクワクして眠れなくなる」「大発見が散りばめられている」と専門家だけでなくビジネスパーソンや経営者からも絶賛の声が寄せられてきた異色のファイナンス本です。その著者・宮川壽夫教授に、ビジネスパーソンがコーポレートファイナンス理論を学ぶことの意義について語っていただいたシリーズ連載の最終回、そのテーマの結論とは?

「理由はいいからまず先を見る」が企業価値の向上でも必要なわけPhoto: Adobe Stock

ポジティブ発想が癖になるコーポレートファイナンス理論

 投資家はいち早く企業の競争優位性を見極め、リスクに応じたリターンが得られると予測した企業に投資を行う。企業はその投資家のお金を使って事業を行う。ただし、その事業は「自社の競争優位性を発揮すればリスクを超えたキャッシュを稼げる」と企業自身が予測した事業だ。こうして企業の価値はあくまで将来の予測によって決まる。コーポレートファイナンス理論の発想は、いま投資したものが将来どれくらいで回収できるか、将来これくらい回収するためにはいまどれくらいの投資が必要か、といったなにしろポジティブな癖を持っている。

 だからコーポレートファイナンス理論の勉強をするときっと気持ちもポジティブになると思うが、それだけではない。企業の見方が変わってくる。これはことによると単に認知の問題といえるかもしれないのだが、企業の評価や分析にもポジティブなアプローチの方法とネガティブなアプローチの方法がある。どちらのアプローチ方法が簡単かというと圧倒的にネガティブなアプローチ方法だ。

 企業価値を考える上ではポジティブアプローチが欠かせないのだが、その方法は意外とむずかしい。さて、最終回はそういうお話だ。

ポジティブアプローチとネガティブアプローチ

 企業の価値を考える際には、まずその企業が持っているリソースが存分に活用されたらどうなるかという状態を想像する必要がある。他社との差別化が実現し、企業の真価が発揮される将来の可能性が大事だ。どちらかといえばそういうある意味ポジティブな明るい発想が将来キャッシュフロー予測の基本的なシナリオとなる。

 しかし、自社の計画や戦略を立案する場合、こういう手順では行われないことが多い。通常よく行われる方法はだいたいにして決まっている。それは、まず現状の問題を特定するという作業から始まる。次に問題が起きている原因を分析し、さらに問題を解決するための課題を設定する。そして課題の実行計画を立案する、といったアプローチ方法だ。

 つまり①問題の把握、②原因の分析、③解決策の提示、④アクションプランという流れになる。こういう方法を問題解決型アプローチと呼ぶ。私はコンサル会社方式と呼んでいる。揶揄するわけではないのだが、この①から④までの穴埋め問題はだれでもわりと簡単に埋めることができる。問題解決型アプローチは、組織にはそもそも欠陥や問題が内在していることが前提となるが、人が集まればだいたいなんらかの問題は起きるものだ。しかも、それらの問題は往々にしてどの企業でも似たり寄ったりする。だからこの手順でレポートを作れと言われればなにかしらのものができ上がる。

 一方、ポジティブアプローチは組織の問題に焦点を当てるのではなく、組織が持つ本当の強みや価値あるものを発見することから始まる。次に、その強みや価値が存分に発揮された理想の可能性を描き、可能性が実現した状態を組織の構成員が共有する。そして、希望的な変化に向けて取り組むべき新しい行動を起こすという段取りになる。①強み・価値の発見、②可能性のビジョニング、③達成状態の共有、④新たな取り組み、というこのポジティブアプローチはアプリシエイティブ・インクワイアリ―(Appreciative Inquiry:略してAIだ!)と呼ばれ、組織開発の研究分野で注目を集めている。

 Appreciate は「認識する」とか「価値を認める」、Inquiryは「探究する」といった意味に解釈すればいいだろう。1980年代後半にデイヴィッド・クーパーライダーやダイアナ・ホイットニーが提唱し、問題解決アプローチとポジティブアプローチの対比は2000年代に入って、ホイットニーとトロステン・ブルームによって整理された。問題解決型のネガティブなアプローチは反省好きの日本人が得意としそうな印象があったのだが、欧米の組織にも同じようなマインドがあるようだ。

圧倒的にむずかしいポジティブアプローチ

 AI論者の多くは、現代のようにますます複雑に変化する経営環境において問題解決型アプローチのみでは限界がある、というような定型句でAIの有用性を主張する。しかし、問題を発見して解決策を検討する従来型のオーソドクスな組織開発の方法が間違っているとも思わない。逆に、AIはポジティブなものにしか焦点を当てないという単純な批判も一方ではあるようだが、そういうわけでもない。AIは悲観的なシナリオから解決策を分析するのではなく、楽観的な状態が頻繁に起きることから発想して組織開発を行うというだけで、考えてみればこの両者は認知や手法の違いに過ぎないと言えなくもない。

 企業が抱える問題は必ずしも単独で把握されるものではなく、その問題の存在には必ず企業が理想とする状態が背景としてあるわけで、問題と理想は通常表裏一体の関係にある。AIは問題を無視しているわけではなく、逆の方向からアプローチしているに過ぎない。

 ただ、企業価値という概念を考える上ではAIの発想は示唆に富んでいるように思うのだ。問題解決型アプローチのように組織がもともと抱える問題というマイナスの要素を挙げて、最終的にそれをゼロに持って行くという消極的な発想は企業が将来の計画を立案する方法としてふさわしい感じがしない。ゼロからプラスへの発想がなければ株主の出資は見込めない。

 ところが、私の経験なのだが、企業研修などで受講生にポジティブアプローチに挑戦していただくと、これがなかなかうまくいかない。企業の方々はちょっと気を許すとすぐに問題を列挙しようとしてしまう。たとえ将来のポジティブな想定ができ上ったとしてもすぐに「ただ、ここにはいろいろ問題がありまして」とやはり問題に取り組もうとしてしまう。これは日本企業がいまなお冥々裡に蔵している文化なのかもしれない。

 実はAIはむずかしい。自社が直面している現状の問題を認識するのではなく、「自社のどのような強みが将来うまく発揮されるのか」「なぜそれがうまくいくのか」「その結果どのようなことが起きるのか」という論理性がAIには求められる。先に述べたように企業が抱える問題はどの企業も似たようなものだったりするが、AIをまともにやろうとすれば当該企業の独自性を掘り起こさなければならない。そのためにはかなりの深堀りされた知識や洞察力がないと太刀打ちできない。つまりいくら企業価値の計算方法をマスターしたとしても、そこに代入すべき要素を組み立てて論理的に構造化できる創造性がないと企業の価値を推計することはできないというわけだ。

再びカッツ・モデルとコーポレートファイナンス理論の関係

 また、AIは対話型の組織開発手法で、組織のメンバーが集まって対話を通して行われるところに特徴がある。このプロセスは対話を通して行うという出力型で成り立っている。ここが大事な点だ。というのもこのことは第2回のコラム【リンク追記】でご紹介したカッツ・モデルを想起させるからだ。

 体系的な勉強をして頭の中にテクニカルスキルとしてのコーポレートファイナンス理論の知識を持っていないと企業価値の計算はできない。しかし、知識を持っているだけでも企業価値の計算はできない。その知識を言語化して相手に伝え、相手の反応を正確に理解するコミュニケーションスキルが必要となる。そして、企業の価値を拡大する要素を構造的かつ論理的に組み立てて概念化するコンセプチュアルスキルが勝負を決める。少し拡大解釈が過ぎてカッツ先生に怒られるかもしれないが、概念化は正しいかどうかというよりもその人の主観的な能力に頼る必要がある。

 ものごとを観察する際に客観的な視点が必要だとよくいわれる。しかし、企業価値の算定に限っては(かどうかはわからない、わりと普遍性があるかもしれないが)、本当に必要となるのは主観的な視点だ。自分なりの想像力で自分なりのアイデアに任せて論理を組み立てる考える能力だ。

 なぜコーポレートファイナンス理論を勉強するのかというテーマで始まったこのコラムの結論を次のようにまとめてしまうとガッカリされそうだが、コーポレートファイナンス理論を勉強したら具体的にこれこれこういうことができるようになる、というものではない。どの分野の勉強でもそうだと思うが、ふと気づいたら自分でも思いもしなかったような能力がいつの間にか身について自然にそれを発揮していたと気づくものではないかと思うのだ。

 ただし、基本から積み上げて体系的な知識を身につけるための座学をきちんと経験している人は、他の分野での知識が必要になった時でも、どのようにして知識を積み上げて複雑な構造を自分のものにしていけばいいかがわかる。