「一般の人たちに医療情報をやさしく伝えたい」。SNSで情報発信を続ける有志の医師4人(アカウント名、大塚篤司、外科医けいゆう、ほむほむ@アレルギー専門医、病理医ヤンデル)を中心にした「SNS医療のカタチ」。2022年8月「SNS医療のカタチ2022~医療の分断を考える~」というオンラインイベントが開催された。
生まれてから死ぬまで、どんな形であれ「医療」というものに関わらない人は一人としていないだろう。にもかかわらず、わたしたちと「医療」の間には多くの「分断」が存在する。そしてその「分断」は、医療を受ける人にも医療を提供する人にも大きな不利益をもたらすことがある。今ある「分断」をやさしく埋めていくために、また、「分断」の存在そのものにやさしく目を向けるために必要なこととはーー。イベントの模様を連載でお届けする。前回に引き続き、西 智弘氏(緩和ケア医)、たられば氏(編集者)が「死と物語」をテーマに語り合った。(構成:高松夕佳/編集:田畑博文)
死に向かっているときは死を全うせよ
たられば:西先生に挙げていただいた「死と物語」、もう1つが道元の『正法眼蔵』です。「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ」という部分。ちょっと驚いたのですが、なぜこれを……?
西智弘(以下、西):ああ、これは先ほどの『源氏物語』で死を目前にした紫の上が現世を賛美する場面を読んだとき、思い出したフレーズだったんです。『正法眼蔵』の「生死」や「眼蔵講話」の段には、生と死は連続しているものではないと書かれている。生きるときは生きて、老いれば老いて、死ぬときには死ぬ。そのままでいいんだ、ということです。
紫の上が「生きることをこんなにも愛している」と言ったのも、「生きる」ことを精一杯全うしている姿そのものですよね。一方で光源氏はどうにも死に抗おうとしてしまう。この対比がとても良かった。
例えば通常は、薪が燃えたら灰になる、と表現しますよね。でも『正法眼蔵』の考え方では、薪は薪だし、灰は灰です。灰は薪に戻るわけではない。それと同じで、生から死に変わるというのではなく、両者は別のものだと。
たられば:別のもの。はあー。
西:だから生のときは一生懸命生を頑張ればいいし、死に向かっているときは一生懸命死を頑張ればいい。薪のときに、いつか灰になったときどうしよう、と思い悩む必要はないと言っているわけです。
たられば:めちゃくちゃわかりやすい現代語訳だ。なるほどねえ。『正法眼蔵』、昨日伺って少し読んでみたのですが、非常にわかりやすいですよね。そのわかりやすさが鎌倉仏教の初期に急速に広まった一因なのでしょうし、そこにまた生死という深いテーマが入っている。
今回のイベント『SNSやさしい医療のカタチ』の「やさしさ」も、親切という意味の「優しさ」と受け入れやすさの「易しさ」の両方を込めているのですが、道元の試みに近いものを感じました。
西:以前『SNS医療のカタチ』に登壇させてもらったとき、「死とはわからないものなのだから、わかろうとしなくてもいい」というような話をしたのですが、それだけだとやっぱり解像度が低い。もっといい考え方はないだろうかと思っていたときに、この道元の言葉を思い出したんです。
今、死が近づいているのなら、それを否認したり抗ったりするのではなく、死に向かっている状態を頑張ればいいんだ、と。死というのは結局、実際に直面したときにしかわからない。だからこそその時が来たら一生懸命向き合う。同様に、生きているときには生きている状態を全うする。
たられば:春に冬のことを考えなくていい、春を楽しめばいいと。
西:その通り。春に、冬に備えて厚着をする必要はない。春の格好をすればいい。そういう考え方です。