家康が長く生きていたら
どのような対外政策を行ったか
それでは、家康の外交構想の全体像だが、その前提として、豊臣秀吉の外交を正しく理解すべきだ。秀吉の大陸遠征については、拙著『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)の主要テーマとして論じたことがあるが、中国を本格征服するという計画は、文禄の役において短時間で漢城まで占領できたため、一時的に夢が広がっただけである。
秀吉が狙ったのは、朝鮮半島南部での領土獲得、朝鮮王府を監督下に置くこと、明との貿易を朝鮮経由でもいいから実現することで、よく似たことを島津氏が徳川家康に支援されて琉球に対し実現したくらいだから、明も受け入れ可能にみえた。
家康は秀吉の死後、五大老で協議し、朝鮮からいったん撤兵したが、関ヶ原の戦いのあと朝鮮を再出兵で恫喝して、緩やかな朝貢使節である朝鮮通信使の派遣、明との貿易仲介の依頼などで収めた。朝鮮通信使を「対等の関係」と言うのは、戦後に韓国人が主張し始めた政治的歴史観だ(江戸幕府の日朝関係は別の機会に取り上げたい)。
家康は側近のキリシタンを粛清したり、高山右近を海外追放したりするなど、晩年になってキリシタンを弾圧しているが、それは豊臣方と結ぶことを警戒したためで、最初から敵対的ではなかった。東南アジアと朱印船貿易を進め、財源として重視したが、駿府郊外出身の山田長政がシャムに渡ったのは、家康が大御所だった時代である。
家康が豊臣滅亡後にどんな対外政策を採ろうとしていたかは、1年後に死んでしまったので分からないが、家康なら鎖国まではしなかっただろう。
豊臣滅亡で幕府に一時的に財政的に余裕ができたので、通商利益の拡大に興味がなくなったのも鎖国の理由だが、家康ならもっと貪欲だっただろう。
江戸幕府が鎖国を行なった理由の一つは、九州が大規模な貿易により経済発展すると、国の中心が西に傾き、関東に本拠を持つ幕府の国内統治が難しくなるということだ。家康も同じ意識を持っていただろう。だが、後継者とは異なり、東日本の港で貿易をするという前向きの解決を模索したのではないか。
もっとも、秀忠の時代になっても、大阪城再建時には、将軍がここに住む可能性があることも藤堂高虎は念頭に置いて工事したとか、4代将軍家綱の時代に、鄭成功の救援要請に応えて、紀州の徳川頼宣を総大将として大陸に本格派兵する寸前まで行ったこともある。
200年も将軍が上洛すらせずに東日本にこもるとか、ずっと鎖国するとかいったことは、最初から考えていたわけでない。松平定信の頃に異国船が頻繁に来るようになってから、鎖国は先祖からの祖法で変えてはならぬものだとか勝手に意識され出したようだ。いずれにしても、家康なら松平定信はもちろん、秀忠や家光よりは、前向きで欧州諸国に鎖国までしたとは思えない。
明との貿易も簡単に諦めたとは思えず、明から清への移行期に派兵したかどうかはともかく、手をこまねいて見ているだけという愚劣なことはしなかっただろうし、どさくさ紛れに朝鮮に関係見直しの圧力もかけたはずだ。
(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)