【どうする家康】「本能寺の変」なぜ起きた?ドラマチックではない“本当の理由”とは『どうする家康』主演の松本潤と愛知県の大村秀章知事 Photo:JIJI

信忠への円滑な継承を
重視していた信長

 この信長・信忠が京に同時滞在したことが、本能寺の変が起きた理由のすべてであるという説は、30年ほど前から唱えてきたものでほぼ私のオリジナルである。

 実はこれを思いついたのは、作家の塩野七生さんが、イタリア・ルネサンスの奸雄チェーザレ・ボルジア(1475~1507年)が「君主論」で知られるマキャベリに対してした回想のなかで、「私はすべての事態に備えていたが、父である教皇アレクサンデル6世(チェーザレは庶子)が死ぬとき、自分も生死の境目にいることだけは想定外だった」と言ったと聞いたときだ。

 教皇とチェーザレの二人は1503年に毒殺ないしマラリアで同時に重態となったため、教皇の死のときにチェーザレは何もできず、後任の教皇によって財産や利権を奪われ追放された。チェーザレが長生きしていたらイタリア統一を成し遂げていただろうともいわれた人物だ。日本でいえば、戦国時代前期、第11代将軍足利義澄とか北条早雲と同時代人である。

 私は、信長は普通に言われている以上に、信忠への円滑な継承を重視していたと思う。なにしろ、本能寺の変の六年前、安土城に移るに際して信忠に家督と岐阜城を譲り、茶道具だけをもって安土に移っていた。

 信忠の母親は信長の第二夫人的存在であった生駒家の娘(吉乃という名に確実性はないがよく知られているので使う)で、次男信雄や信康夫人の五徳と同母である(異説もあるが私は正しいと考えている)。

 信長によって、家督を相続する総領息子として英才教育を丁寧に施された、出来のいい二代目だった。能を好んだことで信長を怒らせたり、軍略で信長の指示に従わなかったりしたこともあるが、ほどほどに「父親のいいなりではない」といえる範囲で、武田攻めでは、よい判断で勝頼を天目山での滅亡に追い込んでいる。

 信長は武田を滅ぼした段階で、毛利と上杉を風前のともしびの状態に追い込み、豊後の大友は同盟者であり、関東の北条も敵対関係でなかったから、天下統一は目前だった。そのときに、どういう体制を考えていたか確実なことはいえないが、あえて大胆に結論だけいえば、足利義満をモデルに、信忠を征夷大将軍とし、自分は太政大臣に短期だけなって、正親町天皇から誠仁親王の譲位を実現し、両者を安土に招こうとしたと考えると、すべてつじつまが合う。

 信忠に、古代に東北制圧の重要ポストだった秋田城介という肩書を与えたとか、信玄の娘と結婚させようとしたなど、いずれも征夷大将軍狙いとみると適切な布石だ。

 信長が、石山本願寺が大坂から退去したあと、佐久間信盛ら老臣たちを追放したのも、信忠のためには役に立たない「うるさ型」の古参実力者たちを整理したと考えたら理解できる。企業経営者もよくやることだ。

「武功夜話」では 秀吉は吉乃の斡旋により信長に仕官したことになっているが、この疑問が多い文書によらずとも、生駒一族や信忠などと秀吉が近い関係なのは間違いない。

 そして、信忠は家康とは甲州攻めでともに戦ったわけだが、家康の安土訪問では接待の一翼を担い、さらに、京から堺遊覧に同行することになっていた。信長が家康と信忠を懇意にしておきたいと考えたわけだ。

 ここで信忠が予定通り堺に同行していれば、たとえ、京で信長が討たれても、信忠と家康が逆賊打倒を呼びかけることで、ほとんど誰も光秀に呼応せず、その結果、光秀は畿内を制圧などできなかったし、それほど時間もたたずに討たれただろう。

 だが、信長が急きょ、中国攻めに出発するために上洛すると聞き、信忠は京にとどまって合流しようとした。信長は何百人という程度の近習しか連れていないから、千人を超える信忠の部隊と合流するのは合理的だ。そして、信長は本能寺、信忠は妙覚寺に入り、父子は夜遅くまで歓談した。

 明智軍が本能寺に着いたのは、日の出直後の午前5時頃。山門を開けて朝の支度が始まっていたころで、ほとんど邪魔されずに境内を占拠して短時間の戦いで決着がついた。信長の遺体は発見されなかったが、それは当時、黒焦げになった死体が誰なのかを判断する「科捜研の女」が京都にはいなかったからで不自然ではない。

 信忠は知らせを聞いてかけつけようとしたが、途中で決着がついたと言われ、二条城に入った。逃げることも可能だったが、「雑兵の手にかかるよりは……」と戦い、自害した。堺にいた家康も自害をしようとしたように、当時の武士の気分は、そういうものだった。