世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、デカルトの『方法序説』を解説する。
数学者であったデカルトは、哲学を数学のような厳密な学問へとアップグレードしたかった。それには、絶対確実な第一原理を発見して、そこから演繹的にあらゆる学問の木の枝葉を打ち立てる必要があった。その木の土台となるのが「私」すなわち精神だった。
考えている私は確実に存在している
『方法序説』は一般に、それ自体が独立した本のように読まれていますが、実は屈折光学、気象学、幾何学の三論文の序論です。
ここには、デカルトの思想形成を語る自叙伝が記されており、さらに、デカルトの学問の方法論が述べられています。
デカルトは哲学を「知恵の探求」と見なし、これを一本の木にたとえました。その木の根は形而上学、幹は自然学、枝は機械学、医学、道徳の三本からなります。
木の根には、哲学の「第一原理」が置かれます。これは、すべての学問の土台となる部分ですから、絶対に確実な真理でなければなりません。
そこで、デカルトは絶対確実な真理を発見する方法をとります。これは方法的懐疑と呼ばれています。
方法的懐疑とは、あらゆることを極限まで疑って、それでも疑うことのできないものが残ったならば、それを真理として受け入れるという思考法です。
まず、感覚は疑われなければならないと考えます。というのは、感覚による情報には錯覚が含まれているからです。また、目の前の物体の存在も疑われます。それは、夢かもしれないからです。
さらに、2+3=5などの数学的真理も疑われます。神(あるいは悪魔)が絶えず誤るように誘導しているのかもしれないと疑います(もちろんそんなわけはないのですが、一種の思考実験のようなものです)。
しかし、このように疑わしいものをすべて疑い、虚偽としてしりぞけていってもただ一つ疑えないことがあります。
それは「疑う私自身の存在」です。天も地も色も形も、自分の体も、悪霊が罠をかけた幻影にほかならないとしても、このように疑っている私は存在します。
だから「私は考える、ゆえに私は存在する」ということを、もっとも確実な第一の原理として受け取ることができるとデカルトは結論したのです。
心と身体のつながりは今も謎?
このように疑わしいものをすべて疑っても「考える私」の存在だけは疑うことができないわけですが、ここから次の原理が導き出せます。
「私」の本質は思惟であり、「考えるもの」すなわち精神であり、これは物体とは根本的に異なる存在である、と。
また、「考える私」の存在が絶対に疑えないのは「明晰かつ判明な認識」であるからです。
よってこのことから私たちが明晰判明と認識したことはすべて確実で真理ということになります。
さらに、「考える私」のもつ観念の中に「神の観念」があります。「神の観念」は永遠・無限・絶対・普遍などの内容をもちます。
この神という完全者の観念があるからこそ私たち人間の不完全さが認識できます。
しかし、「神の観念」の意味内容は自我の観念よりも遥かに大きいので、これは自我が生み出したものではなく外側から植え付けられたと考えられます。よって神は実在することが論理的に証明されるのです(神の存在証明)。
そうなると、方法的懐疑で疑われていたことはすべて解消されます。なぜなら神は「誠実」という観念を含んでいるので、外界の物体の存在は確実であることがわかるのです。
よって、知性が明晰判明に認識する三次元の量としての物体は、夢幻ではなく確実に存在するわけです。
こうして、デカルトは、精神と物体はそれぞれ独立に存在し、両者とも「他のなにものをも必要としない」存在、すなわち「実体」であると考えました。
精神の属性は思惟で、物体の属性は延長(広がり)です。ここに「物心二元論」が確立しました。
物体の本質は幾何学的に規定された空間的広がりなので、物体は自ら運動する力をもちません。
世界は大きな機械であって、因果関係によって支配されています。現代では、心と身体のつながりは、脳科学で説明されていますが、まだ謎の多いところです。
富増章成(とます・あきなり)
河合塾やその他大手予備校で「日本史」「倫理」「現代社会」などを担当。
中央大学文学部哲学科卒業後、上智大学神学部に学ぶ。
歴史をはじめ、哲学や宗教などのわかりにくい部分を読者の実感に寄り添った、身近な視点で解きほぐすことで定評がある。
フジテレビ系列にて深夜放送された伝説的知的エンターテイメント番組『お厚いのが、お好き?』監修。
著書『21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0 現代人の抱えるモヤモヤ、もしも哲学者にディベートでぶつけたらどうなる?』(Gakken)、『日本史《伝説》になった100人』(王様文庫(三笠書房))、『図解でわかる! ニーチェの考え方』、『図解 世界一わかりやすい キリスト教』『誰でも簡単に幸せを感じる方法は アランの『幸福論』に書いてあった』(以上、KADOKAWA)、『超訳 哲学者図鑑』(かんき出版)、『オッサンになる人ならない人』(PHP研究所)、『哲学の小径―世界は謎に満ちている!』(講談社)、『空想哲学読本』(宝島社文庫)など多数。
【著者からのメッセージ】
私たちはなぜ本を読むのでしょうか。それは「本は人類が積み上げてきた叡智のアーカイヴだから」です。本は、人に知識や喜怒哀楽すべての豊かな経験を与えてくれる存在です。ときに読んだ人の人生を変えてしまう本だってあるでしょう。
この本で紹介しているのは、本のなかでも特に多くの人に読み継がれていたり、あるいは数千年という時を経ても今なお読まれている本、つまり「名著」です。
「名著」にはそう呼ばれるだけの理由があります。たとえば多くの人が今悩んでいることのほとんどは、この長い歴史上で誰かがすでに徹底的に考えていることです。紀元前という昔に遡っても、人間はやはり人間なのです。だから、もしあなたに悩みや、疑問に感じていることがあるなら、それらの答えのヒントはほぼ「名著」のなかにあるのです。
「目標がないし、やる気も出ない」「思考が乱れて集中できない」「健康なのに、なぜか疲れを感じる」「勉強したいが、どこから何をしたらいいのかわからない」「働いても働いても、楽にならないのはなんでだろう」「歳をとってきて、だんだん楽しみが減ってきた」
そんな悩みは、この本で紹介する「名著」のエッセンスを手に入れればたちまち解決するはずです。自分で思い悩むよりずっと気分が晴れること、請け合いです。
ところで、「名著」の多くは、とても難解で、それでいて分厚いものが多いです。しかし、名著が難解なのには、実は理由があります。分厚い古典的「名著」は、その時代背景と常識を前提として書かれているので、多くの場合、現代の私たちにとっては説明不足なのです。また、その学問世界の専門用語を「知ってるんでしょ?」という前提のもとに書かれていますから、こっちはわかるわけがない。
「名著」は、下手をすると一冊をしっかりと理解するのに20年以上かかります(それでも、さらに疑問は増えていきます)。普通に生きて普通に暮らしている私たちには、そんな時間はありません。つまり、「名著」とは基本的に「読破することができない本」なのです。
人生は短い。だからこそ「名著」をまず、おおざっぱに理解して、興味が出たら原典にあたればよいのです。この本では、古今東西の「名著」のうち哲学から心理学、経済学まで選りすぐった60冊のエッセンスをイラストとともにわかりやすく解説していきます。
※収録した60冊は、『ソクラテスの弁明』(プラトン)、『方法序説』(デカルト)、『実践理性批判』(カント)、『現象学の理念』(フッサール)、『歴史哲学講義』(フッサール)、『ツァラトゥストラはこう言った』(ニーチェ)、『存在と時間』(ハイデガー)、『存在と無』(サルトル)、『自由からの逃走』(フロム)、『社会契約論』(ルソー)、『資本論』(マルクス)、『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)、『グーテンベルクの銀河系』(マクルーハン)、『ポストモダンの条件』(リオタール)、『複製技術時代の芸術』(ベンヤミン)、『アンチ・オイディプス』(ドゥルーズ&ガタリ)、『21世紀の資本』(ピケティ)など。
もちろん原典と比べてその情報量は雲泥の差です(本書の場合、500ページ以上ある本も見開き4ページにまとめているのだから)。でも、なんにも読まないよりずっといいでしょう? そう思いませんか。分厚い本を一冊買って、読まないで部屋に飾っておくより、本書を電車の中で読んだほうがよいのではないでしょうか。
必ずしも時代順になっていないので、どこから読んでもOKです。パラッとめくって、全体を眺め、どんなふうに自分の役に立ちそうかを考えます。それぞれの本は、関連を他のページとリンクしてあります。つながりの意味については、本書の冒頭に収録した「ひと目でわかる名著の関連図」を参照してください。
ぜひ本書を活用して、自由な思考法を手に入れて、人生の難問解決をはかり、明日に向かって進んでください。きっと、すばらしい未来が広がっていくことでしょう。