欧州リーグ移籍後に
「出戻りできる」体制は魅力

 けがもあって20年夏に引退した内田だけではない。今シーズンの鹿島では、一度ヨーロッパへ新天地を求めたFW鈴木優磨、DF安西幸輝、DF昌子源、DF植田直通が再びプレーしている。00年代にもFW柳沢敦、FW鈴木隆行、MF小笠原満男、MF中田浩二がヨーロッパ挑戦から復帰している。

 ヨーロッパへ旅立った選手たちが、国内復帰にあたって古巣を選ぶケースの多さで、鹿島は他のクラブを寄せつけない。しかも全員が、異口同音に「鹿島にタイトルを取らせるために」という言葉とともに帰ってきた。何がそう思わせているのか。柴崎は鹿島の歴史を理由に挙げている。

常勝軍団のはずが…元代表・柴崎岳がケガで離脱、5年連続「無冠」鹿島アントラーズの過酷な現実タイトル獲得を目指して復帰した柴崎 (c)KASHIMA ANTLERS FC

「おそらくはこのクラブの生まれた経緯から、それ(ヨーロッパ経験者がタイトル獲得を目指して復帰する流れ)は生まれていると思う。99.9999%不可能と言われたなかでカシマサッカースタジアムができて、鹿島アントラーズが生まれた歴史で、タイトル獲得がこのクラブの唯一の存在意義だったところがまず始まりとしてある。それが代々の選手たちのスピリットやマインドとなり、現在に至るまで引き継がれてきている」

 柴崎が言及した「99.9999%不可能」とは、93年5月に10チームで旗揚げされたJリーグ参入へ向けたヒアリングで、Jリーグの川淵三郎初代チェアマンから突きつけられた言葉を指す。

Jリーグ加盟が厳しい状況から
先行投資で這い上がった過去

 鹿島の前身・住友金属工業蹴球団は当時、日本リーグ2部の所属だった。本拠地が都心から100km近くも離れており、人口も少なくて観客動員の見通しが立ちにくい状況がJリーグ側にノーと言わせた。そして、0.0001%に込められた条件が、当時の日本になかった屋根付きのサッカー専用スタジアムの建設だった。

 そこから一転、鹿島は93年3月に完成した茨城県立カシマサッカースタジアムで条件をクリアしただけでなく、元ブラジル代表の神様ジーコを現役復帰させてチーム強化も図った。迎えた93シーズンのファーストステージ。当時の2強、ヴェルディ川崎と横浜マリノスを蹴散らして優勝したのは鹿島だった。

 大きなインパクトこそ残したものの、ステージ優勝はタイトルにカウントされない。93シーズンの年間王者をかけたチャンピオンシップでヴェルディに敗れた鹿島は、続く94、95シーズンと無冠に終わった。しかし、この間に常勝軍団化を見すえて赤字を覚悟で先行投資を行っていた。

 それが94年のW杯アメリカ大会を制したブラジル代表の主力、レオナルドとジョルジーニョの獲得だった。20年以上にわたって鹿島の強化責任者を務めた鈴木満・強化アドバイザーがこう振り返る。

「当時の社長がアントラーズのブランド作りを宣言して、外国人選手のビッグネームとタイトルの獲得を目標として掲げた。多少は無理をしてでもレオナルドとジョルジーニョを獲得して、96シーズンに初めて勝ち取ったリーグ優勝が、日本人選手を獲得できる環境が整った点で大きなターニングポイントになった。大物日本人選手が加入するようになったのが、96年の柳沢からなので」