ステージに穴を開けない責任は全う
それだけは評価されていいのでは

 筆者は父がベーシストで、「親の葬式よりステージを優先させるべし」と聞かされて育ち、自身が小さなステージに立つようになったときもその精神でやってきた。演者はステージにそれだけの責任を負う覚悟を持てということだが、山崎まさよしもこの点は全うしているのである。

 伝説的ロックバンドのオアシスはしょっちゅう公演を飛ばしていたイメージがあるが(それもオアシスの面白さではあった)、山崎まさよしはどれだけ歌いたくなかったとしても、きちんとステージに姿を表した。人々の配慮が他人のメンタルヘルスケアに向かうようになったこのご時世においては、変な話だが、「体調不良により公演中止」とした方が、氏は素直に心配されていたはずである。

 だが、プロ意識が災いしたというべきか、とりあえずはステージに立って、あまり歌いたくはないけどなんとかしようと試みた結果が、炎上を招いてしまった。「記憶を消したい」と話す観客がいるくらいだから、「とりあえず」なんかではステージに立たない方がよかったという意見は本当にその通りだが、「ステージに立とうとした」この一点のみは評価されていいように思う。

 そのステージが大いなる火種となったことについては、次のステップでの猛省すべき材料で、多数の観客に不満を抱かせてしまった事実は、プロとして受け止められたいところである。

 次回の名古屋のステージは18曲やる予定というのが関係者の話だが、山崎まさよしが今後ライブの曲数を減らす方向をもし模索しているとするなら、今回の件は痛いながらも有益なケーススタディになったに違いない。

 ファンとアーティストがお互いの姿をしっかり目視しながら、少しずつ変革が進められていけば、確固たる信頼関係は自ずと築かれているはずで、おそらくその方法がファンとアーティスト双方にとって、最も心安らかで無理のないアプローチである。