さらに言えば、これまでのトヨタ・ホンダ・日産の3社持ち回りは、「ホンダと日産のお家の事情」から変更せざるを得なくなっていた背景もある。

 日産は「ポストゴーン」の経営混乱と赤字転落による内田体制がスタートして久しいが、いまだにその混乱が尾を引いており業界活動をしている場合ではない。それだけの人材もいない状況だ。

 また、順番だけ言えば、トヨタの次はホンダの番に当たるところだが、ホンダの経営状態も盤石ではなく、四輪車事業が二輪車事業に「おんぶに抱っこ」から脱しきれない事情もある。

 また、ホンダは02年の宗国旨英・元会長(~04年)選出以来、自工会会長を務めるポジションとして(ホンダの)会長職を復活させ、青木哲・元会長(08~10年)、池史彦・元会長(14〜16年)と続けて就任してきた。本来なら豊田章男会長の後の20年に神子柴ホンダ会長が就任する流れであったが、豊田章男会長の異例の長期留任が続き、22年6月には倉石誠司副社長にホンダ会長が切り替わった。しかもその後、自工会活動は三部敏宏社長が副会長として動くようになったことから、倉石会長は自工会理事にも入っていない。

 トヨタと日産、さらにはホンダが加わった自工会会長の輪番体制が続いてきたのは、自動車業界にあって中堅メーカーや大型車・軽自動車・二輪車メーカーサイドが「リーディング企業に任せる」のが当然という姿勢があったことも影響しているだろう。

 だが、実は過去には三菱自動車工業の“大物トップ”が自工会会長に意欲を示したが、T・N(トヨタ・日産)の壁に阻まれたこともあった。また、日米自動車摩擦の乗用車自主規制が長らく続いた1980年代には、自主規制の枠配分で、当時乗用車もあったいすゞの岡本利雄社長(当時)が「自工会、脱退も辞さず」との強硬論を切り出したこともある。

 ちなみに、筆者は当時からいすゞを長く取材してきたが、旧御三家のいすゞが乗用車撤退や提携先のGM破綻などで苦慮してきたのを知っている。その時代から見ると、いすゞから自工会会長が初めて選ばれるのは隔世の感があり、まさに日本自動車産業“変革の証し”といえるだろう。