「地震=兵器」へと格上げ、太平洋戦争へ

「人工地震」の認知度は時代が進むとさらに拡大していく。わかりやすいのは、1935年の荒木貞夫陸軍大臣の発言だ。

「地震に鍛錬せられた日本人が何で空襲を怖れるのであるか私には解りません。空襲とは空中の地震である、空襲があつたならば空の地震が来た、人工地震が来たと思へば宜しいお出でなさい、地震で鍛へた日本人だ何度でも来いと平気で居れば宜しいです、戦をするからには命は素より捧げて居る、時には毒瓦斯も爆弾も落としませう。多少の損害もありませう其れは覚悟して置いて、爆弾が落ちたら防護団の諸君は爆弾の下に行つてヤレ爆弾が来たか懐かしやと言つて集まるのです」(時局に対する所感 福岡県国防会 昭和10年)

 ここでは特に説明することなく「人工地震」という言葉が用いられている。関東大震災の風評以降も、一部の日本人の間では「人工地震」が当たり前のように受け入れられていたことがうかがえよう。

 そこに加えて注目すべきは、空襲と同一視されているように、地震を「兵器」と目するムードが高まっていることだ。実際、1937年4月15日の読売新聞では、「人工地震バンザイ!地底征服の無敵軍生る 学界の権威を動員 陸軍も掩護射撃」という記事も出た。

 そして太平洋戦争に突入。戦局が悪化して疲弊する日本国民に対して、「地震=兵器」と強く印象付ける出来事が起きる。1944年12月7日の昭和東南海地震と、翌45年1月の三河地震だ。

 ご存じの方も多いだろうが、実はこの二つの巨大地震は、軍によって報道管制が敷かれ完全に隠ぺいされた。当然だ。敗戦敗退が相次いでいる中で、地震で壊滅的な被害を受けて推定1200人もの亡くなった地域があると報じたら、さらに国民の士気が落ちてしまう。軍需工場が被害を受けたことは、敵国アメリカにも知られたくなかった。

 しかし、そんな軍の努力も虚しく、世界にこの巨大地震は筒抜けだった。各国の地震計が異常を示したからだ。アメリカの新聞でも「日本の中部で地震があった」と大きく報道された。

 アメリカは当時からプロパガンダに長けた国なので当然、戦争勝利のためにこの自然災害を心理戦として活用した。『ドラゴーンキャンペーン作戦』と名づけ、B29から宣伝ビラを投下して、アメリカ軍が地震兵器を使ったように思わせたのだ。戦時中に愛知・半田にいた男性が、軍から地震に対する緘口令(かんこうれい)が敷かれた数日後のことをこう振り返る。

『B29が来て、キラキラキラと。見たらビラ。当時ビラは拾っちゃいけないってなってた。でも僕は好奇心があるから、走って行って、山のふもとまで行って拾って見たら、これがまたショックだった。毛筆で、筆で、「地震の次は何をお見舞いしましょうか」って書いてあった』(震災で犠牲になった学生 NHKアーカイブ

 つまり、戦時中の日本人は、日本軍から地震隠蔽のプロパガンダを受ける一方で、アメリカ軍からは「人工地震のプロパガンダ」まで受けてしまうという「何がうそで何が本当かわからない状況」に追いやられていたのだ。この時の「後遺症」が戦後も続いていると筆者は考えている。