政治家は、選挙で落ちたら
タダの人

 一方の日本では、国会議員の活動の多くは地元で行われる。先述した「集票マシーン」も、各議員の地元で作られることが多い。「地元対応のための政治資金」は巨額となり、捻出するために議員が奔走している。選挙制度改革後も、地元の支持者が投票と引き換えに、政治家にさまざまな便宜を図ってもらう構図は色濃く残っている。

 良くも悪くも、これらが英国との違いである。英国の肩を持つつもりはないが、日本で「政治とカネ」の問題が後を絶たず、かつ大規模化しやすい要因はここに集約されるのではないか。

 だが、日本における90年代の選挙制度改革では「議員の地元活動」については一切是正されなかった。それどころか、小選挙区制によって選挙区が小さくなったことで、議員と地元の関係はより密になった。その状況下で政治資金規正法が改正されたことで、選挙基盤の弱い国会議員は資金集めがより難しくなった。

 特に非世襲や若手の議員は、政治資金のやりくりに苦しんでいたはずだ。だからこそ、派閥や地元の指示に従い、抜け道を探して裏金を受け取るなどの行為に走らざるを得なくなったといえる。

 なぜ地元活動は是正されなかったかというと、「政治家は、選挙で落ちたらタダの人」だからだ。政治家が急に「国会の活動を優先する」「これまで便宜を図ってきたことをやめる」と言い出して、地元の支持層との関係性を弱めようとすると、地元の猛反発を受けかねない。集票力が一気に弱まることが懸念される。

 だからこそ政治家は、この構図に問題があると痛感しつつも指摘しづらかったのだろう。政治に関心がなく、実態を知らない国民も一定数存在するため、世論が「議員の地元活動」を疑問視することもなかった。筆者が先ほど「国民にも責任の一端がある」と述べた理由はここにもある。

 スキャンダルが起こる度に、国民が議員個人を徹底的にバッシングし、議員が辞任したら「撃ち方やめ」を繰り返すだけでは、本質的な問題は解決しないのだ。どうすれば政治家が地元活動に頼らず、カネのかからない政治ができるのか、国民の側も考えなければならない。

 もし今後、「パー券問題」に対する国民の批判が激化し、仮に自民党の全派閥が解散を余儀なくされたとしても、地元活動にカネがかかる構図は変わらない。この構図がなくならない限り、たとえ新たな政治資金規正法ができたとしても、政治家は抜け道を探し続けるだろう。