「札幌五輪までに開業せよ!」
シェルター考案と見切り発注の顛末

 その後、1967年に、「1972年札幌五輪」の開催が決定すると、大刀局長は、メイン会場の真駒内屋外競技場(現在の真駒内セキスイハイムスタジアム)へのアクセス路線(現在の地下鉄南北線)を、69年2月に着工して4年弱で開業させるという、重要プロジェクトを担うことになる。

 全区間を地下掘削するようなスケジュールの余裕はなく、建設費用もかさむ。そこで、折衷案として、着工後の69年10月に廃止となった私鉄「定山渓鉄道」の用地を転用し、一部区間だけを高架で建設することになった。

 しかし、根本的な問題が発生する。ゴムタイヤ方式は、地面とタイヤの抵抗で生じる粘着性によって走行するため、空転の原因ともなる冬場の雪や、春先の凍結への対策が欠かせなかったのだ。

 ロードヒーティング(電熱線で雪を溶かすシステム)導入などが検討されたものの、電力会社からの回答は「(多量に電力を消費するために)変電所の新設が必要」「夏場に使用しなくても、通年で基本料金を徴収します」というもの。開業後のランニングコストを考えると、とても容認できない。

 ここで大刀局長は、「それなら全部覆ってしまえ」とばかりに、シェルターを考案した。試運転のために先行で工事を進めていた真駒内教習線(1.3km。現在の自衛隊前駅~真駒内駅)のシェルター設置には許可が下りた。が、莫大(ばくだい)な追加予算がかかることもあり、当時の原田與作・札幌市長が参加する会議(通称「御前会議」)では、市長は頑として許可を出さなかったという。

 シェルター建設の必要はあるが、市長の許可を待つ余裕はない。ここで大刀局長はなんと、許可を得ずに、工事を進める決断を下した。莫大な費用がかかるにもかかわらず、市長の承認を得ずに“見切り発注”を行ったのだ。

 なお、原田市長はこの頃に体調を崩し、入院を余儀なくされたという。大刀局長がのちのインタビュー(北海道新聞・1975年6月22日記事「人・はなし 大刀豊さん」)で語ったところによると、「こんなことを言っては悪いが、(市長の入院に対して)『しめた!』と思った」そうだ。