その後も、産経のスクープは続きます。爆破事件のとき、男女二人組がタクシーで現場を走り去ったという証言から個人タクシーの運転手を見付けて、初めて犯人たちの顔や姿を確認。円筒形の荷物を抱えていたことも判明しました。
ある日、夜回りに出た記者がベロベロになって記者クラブに電話してきました。「とにかくこの名前をメモしろ。東京行動戦線、斉藤のどか」。酔いがまわって刑事が漏らしてしまった容疑者の名前と所属団体を、忘れないように電話で伝えてきたのです。以降、記者が刑事を尾行するなどして、犯人の名前を4人までは特定し、証拠まで産経は把握していました。
最後の詰めは、Xデーの特定です。Xデーの報道は極めて大きいリスクをはらんでいます。容疑者たちが逃亡する可能性や、報道されることを知って警察が捜査開始の日を変える可能性もあります。警視庁幹部と社の幹部で侃々諤々の議論の上、犯人の名前と住所を載せない、記事は都内最終版だけにしてラジオやテレビが早々に流さないよう遅い時間にしか渡さない、配達は2時間遅くする、といった妥協案が出されました。記者にとっては名前がスクープできないのは悔しいことですが、逮捕を優先し、決定は下りました。
逮捕後、犯人の一人が持っていた鍵で行方のわからないものが2つあり、それが桐島聡とUのものでした。桐島の部屋には爆弾の材料が大量に蓄積されていましたが、逃亡したあとでした。
「文春砲」を育ててくれた
恩師の声が今も胸に蘇る
さて、この度桐島聡が名乗り出た心理について、色々な意見が出ています。私は桐島は完全に敗北感に打ちのめされていた人生だったと思います。なぜなら、教本『腹腹時計』は一人でも爆破テロを続けることを示唆していたのに、彼は爆破をしようと思った気配もないからです。
産経チームは新聞協会賞をとりました。しかしそれ以降、うーんと唸らされる新聞協会賞もののスクープは見当たりません。福井氏は「テレビに新聞が勝てるのはスクープだけだ」と語っていましたが、それはまったく実現せず、むしろ大人しいジャーナリズムになってしまったのが、今の大きな部数減につながっているのではないでしょうか。
私の耳には、今でも福井氏の低音の声が蘇ります。そして、秘かに思うのです。福井氏の指導があったからこそ、週刊文春が「文春砲」と呼ばれる存在になれたことを。
(元週刊文春・月刊文芸春秋編集長 木俣正剛)