記者が犯人にたどりついた方法は、執念の賜物としかいいようがありません。現場に残された赤衛軍のヘルメットに着目し、事件発生場所に近い工事現場で盗まれたとわかったので、現場に近い大学に狙いを絞りました。そして大学のエレベーターに「赤衛軍万歳」の落書きがあったという証言から、それを消した清掃員への取材で現場に残された宣言の筆跡と同じであることを確信しました。

 そこで、大学の最寄りの駅の定期券購入の申込書を全部調べて、過激派学生の一人を突き止めたのです。さらに、犯人逮捕の瞬間を撮影しようと、主犯のアパートの前にある家具店にアルバイトとして勤務しました。「家業を継ぐため、無料でアルバイトしたい」と家具店に入った二人の記者は、ずっとアパートを見張り続け、逮捕の瞬間の撮影に成功しました。

「スクープだけはテレビに負けない」
福井惇氏が挑んだ連続企業爆破事件

桐島聡・連続企業爆破事件を猛追、「文春砲」の手本となった産経記者の執念『狼・さそり・大地の牙』
福井惇著 文藝春秋刊

 こんな努力をしている記者が、今、いるでしょうか。
 
 朝霞事件の取材を指揮していたのが、福井惇・浦和支局長。彼の持論は「これからはテレビの時代になるだろうが、少なくともスクープだけは新聞は負けない。新聞の未来はスクープにかかっている」というものでした。

 そして、運命が誘うように、福井氏は警視庁キャップに就任します(本当は支局長から二階級降格となるのですが、福井氏の情熱がこの時代に必要だと、産経新聞は考えたようです)。

 実際、当時の世相は物騒でした。1971年には東京都内だけで62件、そして48年にかけて全国で87件の爆弾事件が起きています。使われた爆弾の数は573個。このうち逮捕は51件、192人のみ。その上、赤軍派による明治公園での爆弾事件では機動隊26人が重軽傷を負い、土田国保・警視庁警務部長宅に爆弾が仕掛けられ夫人が死亡するというように、無差別テロから警察幹部や自衛隊員を狙うテロにまで、犯行はエスカレートしていました。

 そして、福井氏が警視庁キャップに就任した1974年2月から半年経った8月30日に三菱重工爆破事件が起きました。死者8人、重軽傷者376人。ちょうど昼休みでビル外に出ていたサラリーマンやOLが、割れたガラス片で重症を負いました。