成長につれて植え付けられた
「自分らしさ」という強迫観念

 実際には、そんなものはありません。虫も動物も、自分たちのはからいなどもっていなくても、ちゃんと生きています。

 たとえば赤ちゃんは、生まれてきたときにはエゴがありません。だからお母さんと自分の区別がつかないのです。成長してくる過程で、「これはお母さんと呼ぶ存在らしい」、「これは自分のもの」で、「これは自分のものではない」といった区別をつけられるようになります。

 一事が万事、人間は自分たちに都合のよいエゴをぶつけ合って「ここからここまでは日本の領土」「ここから先は他国の領土」とさまざまなものに対しての区別をつけていきました。

 そして、もともとなかった“自分”というものにも、何か“自分らしさ”のようなものを設けなければ生きている価値がないかのごとく、強迫観念を植え付けられてきたのです。

 この強迫観念に縛られていると、身動きが取れなくなってしまいます。

 もともと存在しないものを探そうとしているのですから、苦しくて当然なのですが、いろいろな人がそれぞれの「はからい」の中で生きている世の中である以上、そこに順応していく必要があります。ここには善悪はなく、さまざまなエゴがあるという実相(事実)を受け止めることが大切です。

 さきほども述べたとおり、他人の価値観に惑わされない“私らしさ”が、なければいけないと思っていることから苦しみが生じるのです。そこで、仏教の「無我」が重要になります。

「無我」とは「我を有しないこと」を意味し、簡単にいえば「私らしさ」を捨てた状態です。自分のなかに「私はこうありたい」という目標や、自分らしさを発揮できる道があるのであれば、大いにその道を歩めばいいと思います。しかし、もしも「私らしさ」が何かわからないならば、無我になって、「なんとなく直観で引かれたものに、流されてみる」のです。